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三綱領を解き明かす

  • 進文明

    文明を進む

  • 磨知識

    知識を磨き

  • 振元気

    元気を振るう

  • 重廉恥

    廉恥を重んじ

  • 明大義

    大義を明らかにす

  • 正倫理

    倫理を正しゅうし

済々黌生以外の方へ

三綱領は、簡単に言うと済々黌の校訓

済々黌生・OB・OGはよくご存知だと思いますが、三綱領は、済々黌の創設者佐々友房が定めた徳⽬です。佐々先生の「こういう⼈間を育てたい」という⽬的像を表しています。

あなたも次のような解説をしていませんか?

多くの人が思っている三綱領の意味

「倫理」をきちんと持ち、「大義」をきちんと持つ。

道徳

「恥」であることが何なのかを知り、「元気」でいるように。

運動

勉強して「知識」を深め、「文明」の中を生きていく。

勉強

「倫理」をきちんと持ち、
「大義」をきちんと持つ。

道徳

「恥」であることが何なのかを知り、
「元気」でいるように。

運動

勉強して「知識」を深め、
「文明」の中を生きていく。

勉強

でも

本当にそうなのでしょうか?
実は、三綱領には現代社会に提案性のある意味が込められているのです!
それを今回、コトバと図でまとめてみました!

実はこんな意味があった!

歴代黌⻑先生の三綱領の解説

  • 佐々黌⻑の解説
  • 木村黌⻑の解説
  • 井芹黌⻑の解説
  • 本田先生の解説
  • 一瀬黌⻑の解説
  • 分かりやすい解説
  • 佐々黌⻑の解説

  • 木村黌⻑の解説

  • 井芹黌⻑の解説

  • 本田先生の解説

  • 一瀬黌⻑の解説

  • 分かりやすい解説

佐々友房黌長の『三綱領の解説』

第2代黌長 明治20年〜明治22年

済々黌創設者の佐々友房先生による「三綱領の解説」があります。1982(昭和57)年に編纂された『済々黌百年史』のP87〜P88 に本文の付録資料として掲載されています。その収録文より、読みやすいようカタカナ表記をひらがな表記にあらため、見出しを付記し、読みにくい漢字や語句には注釈や言い換えをつけました。
もともとの文章は『済々黌百年史」でご確認ください。

済々黌の三綱領

本黌の建設にあたり、他と異なる所以はその三綱領を遵守するにあり。
三綱領は実に本黌教育の目的を示したるものにして、その大義の明らかなるは煥乎(かんこ=燦然として、のような)として日月を見るがごとし。しかれども今や益々この主義をもって本黌諸子の脳髄に鑞刻(ろうこく=彫り刻むこと)せんために、なおその義趣を解説する。

正倫理明大義

倫理を正し大義を明らかにすとは、神聖その道を同じうし皇漢その教えを異にせざる所にして、我が黌の重んずるところ、これより大なるはなし。
しかし天の斯民(しみん=この民〔やや親しみを込めて〕)を生ずるその性(さが)や、もと善にして懿徳(いとく=うるわしい徳)を好みし。仁義忠孝藹然(あいぜん=さかん)にして、その心に根ざさるはなし。いわんや我が祖宗の神聖叡智なる夙(つと)に皇基を創めてこの国を開きたまい、深仁厚沢天地とその悠久を同じうし、君臣の義に重なるに父子の親を以てし、上下力を合わせ、心を同じうしてともにこの国を維持し、以て今日に至る。
故に子を以てその親に孝し、弟を以てその兄に悌し、長幼の序あり。夫婦別あるはすなわちこれ自然の秩序を正し社会の関係を明らかにする所以にして、家族此によりて以て和睦し、国家これによりて以て隆盛し、天下これによりて以て治平せんことは、天地自然の大道というべし。

而して我が国民が万世一系の皇統を頂き、君臣の義に重ぬるに父子の親を以てするものはこれ誠に宇内無比の国体たる所以にして我が国民たるものはこの大義のあるところを考え須臾(しゅゆ…だが、おそらく読みは「しば」)らくも日本国民たるの責任資格を抛棄(ほうき=うっちゃる)すべからず、本黌諸子そのこころなくして可ならんや。

重廉恥振元気

人の人たる所以は耻(はじ・恥の俗字)を知るより大なるはなし。戦に臨みて勇ならず、これ耻を知らざるなり。国の為に忠ならずこれ耻を知らざるなり。名節を抛(なげう)ちて利欲に趨(はし)る。これ耻を知らざるなり。外人に諂(てん=へつらうこと)従して独立を為す能わず。これ耻を知らざるなり。その他凡百のこと、廉恥を重んぜざれば、一国の士気、何を以て振起することを得んや。一国の士気、振起せずんば国その国にあらず。而して古今興国亡国の遺轍皆以てこの理を証明せざるはなし。故に古人曰く、耻の人におけるや大なりと。しからばすなわち本黌の諸子は常に廉恥を重んじ、士気を振うを以て自ら任じ、ついにこの風をして全国を感化せしめざるべからず。蓋(けだ)し人々廉恥を重んずれば、すなわち以て一国の元気を振うの結果を生じ、一国の元気斯く振うて始めて以て世界各国と対峙すべし。抑(そもそ)も人の心志剛毅なればその身体をして活発ならしむべく、身体強壮なればまたその心志を奮起せしむべし。これ蓋し心身交感の理にして、教育の内外交々(こもごも)涵養せざるべからざるはこれにあるを、以て我が黌もまた夙(つと)に体育の科を盛んにし無事の時に方(あた)りてはその職業に耐える体力を養成し、有事の日に方りては彊場(きょうじょう=国の境)に従事し、国民護国の義務を全うせしめんと欲す。これ内心の道義以て廉恥を重んじ外形の体力以て元気を振い交々あい涵養せしめんと欲するゆえんなり。

磨知識進文明

徳育を修めて以て倫理を正し体育を盛んにして以て元気を振うは、これ我が黌が目的とするところなり。しかれども智識を開いて文明を進むるは、実にこれ現時の急務にして、また決して忽怠(こつたい=おこたる)すべきにあらず。これ本黌の盛んに理科諸学を講習するゆえんなり。蓋し理科諸学の用たるや、ひとつは以て学者の智力を開発し、ひとつは以てその智識を応用するにあるを以て、一個人にありてはその能力を練達しその職業を裨益(ひえき=おぎないますこと)すべく、全社会にありてはその福祉を進めその富強を増さしむべし。かの欧州各国の駸々(しんしん=物事が早く進行するさま)として日に文明に進む所以は、実にまた理科諸学の賜物に他ならず。而して我が日本の文明にして、彼らが下に瞳若(どうじゃく=見つめる、目を見張ってあきれる)たるものは、また未だ理科諸学の利用を尽くさざるに職由(しょくゆう=よりどころ、基づくところ)することは寧ろ識者を俟(ま=待)ちてしかるのち、これを知らんや。これまた我が黌がかの二育とともに大いに知育を主唱せざるべからざるゆえんなり。故にそれこの三綱領なるものは本黌がその建設の趣旨をもって生徒諸子に示したるものにして、生徒諸子にありてはすなわちその目的となり、そのひとつを廃するときは本黌真正の教育を受けたるの生徒というべからず。また我が日本国民の資格を具備したるものというべからず。故に聊力(りょうりょく=いささかの力で)その義を解して、以て諸子に分かつという。

■転記元資料
・『済々黌百年史』
・昭和57年10月印刷 昭和57年11月発行
・発行所:済々黌百周年記念事業会 熊本市黒髪2丁目22番1号
・編集 :済々黌百年史編集委員会 委員長 本田不二郎
・印刷所:株式会社城野印刷所 熊本市琴平1丁目4番2号

■佐々友房
・済々黌創設者 第2代黌長(明治20年〜明治22年)
・詳しくは『済々黌百年史』P 942〜943参照のこと

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木村弦雄黌長の『三綱領述義』

第3代黌長 明治22年〜明治27年籍

佐々友房先生が政界進出のため済々黌の黌長を辞された後を継がれた木村弦雄先生。その気概と当時の社会情勢への危機感がうかがえる三綱領解説。
木村先生は佐々先生と同等か、それ以上の波瀾万丈の陣勢を送られた方。ぜひ『済々黌百年史』の木村先生の紹介を読んでいただきたい。その人生の激烈さがこの解説にも反映しているのかもしれない。

木村弦雄先生による『三綱領述義』

三綱領は、本黌教育の精神なり。本黌の生徒たる者は、是を以って深く脳裏に銘刻し、日本国民たるの資格を錬成せんことを要す。因って之が義趣を開設すること左の如し。

正倫理。名大義。

倫理とは、人々相互の関係に存在する秩序の義なり。君臣、父子、夫婦、長幼、朋友、五者の関係は、皆自然の理法に出づ。是を以って之を倫理と云うなり。蓋し人の禽獣と異なる所以は、此の倫理あるに因る。是れ萬邦其の道を同じうし、古今其の則を異にせざる所なり。殊に我が日本国は、東洋中に屹立し、人質醇良、風俗敦厚、嘗て倫理に篤し、欧化輸入以来、此の風漸く漓薄(りはく)に赴かんとす。我徒応に力を尽くして之を匡正せざる可からず。是国粋を存養する所以なり。
抑我祖宗、皇基を此の邦に創め給い、君臣の義に重ぬるに父子の親を以ってし、宗支躰を分ち、皇民の分定まる。実に是日本民族歴史上の主脳たり。彼の海外諸国の歴代革命し、主権変遷するものと、日を同じうして語るべからざるなり。故に我が日本国民に在りては、倫理中、殊に君臣の義(即ち皇民の関係)を以って最大なりとす。此の大倫を全うする為には、時として他の四倫を顧みるに暇あらざることあり。故にこれを大義と云う。衆義中の最大なる者なればなり。名大義とは、此の義を闡明(せんめい)して、邪説に惑わず、利害に牽かれず、終始日本国民たるの本文を完うするを云うなり。

重廉恥。振元気。

古人廉恥を以って国維の中に列す。其の人に要なる蓋し知るべきなり。廉は清潔にして物に潰されざるなり。恥は之を穢れとして敢えて近づかざるなり。二つの者相持ちて用をなす。而して耻を知るは殊に先なりとす。今夫れ制規の服を着け、講学の場に入り自明して学生と称す。然而て品行醜穢なるは、是れ耻を知らざるなり。軍人にして戦を勉めず、官吏にして職務に怠慢なるは、是れ耻を知らざるなり。健全可用の身を以って、一家を営み、独立を図る能わざるは、是れ耻を知らざるなり。独立国の人民と為(し)て、外慕自屈の陋習に甘んじ、国家の対面を傷くるを憂えざるは、是れ耻を知らざるなり。耻の人に於ける、其の及ぶところ斯の如し。而して之を知れば即ち自ら廉にせざるを得ず。自ら耻自ら廉にするは、特に進む所以なり。
且つ夫れ教育の事端多しと雖も、之が枢機をなすものは一に元気に在りて存す。譬えば虎を画くが如し。爪牙を生きるが如く、斑文炳蔚、宛然真に迫るも、此れに眼晴を点ぜざれば、活動の勢を生ずる能わず。人の元気に於けるも亦然り。学術広かざるに非ず、智識深からざるに非ず、唯だ一の元気に乏しきが為に、前の数多のもの皆死物たり。是れ世上常に目撃するところなり。蓋し一个人の元気は、一个人の眼晴たり。一国の元気は、一国の眼晴たり。本黌の教育、正心養気、以って其の内を練り、武技練兵、以って其の外を鍛ふ。内外相持って、元気を振作するは之が為なり。

磨知識。進文明。

倫理正さる可らず。大義明らかにせざる可らず。廉恥重んぜざる可らず。元気振るわざる可らず。而して此れが根底を為すものは、知識なり。夫れ無心の行為は、未だ確かに善悪の名を命ず可らず。不期の功績は、真の功績に非ず。蓋し人の世に在る、近くは衣食住より、業を執り務に服し、室に居り人に接し、遠くは国家社会に対するの上に至るまで、人事の複襍(=複雑)なる、蒼海の鱗の如く、晴夜の星の如く、斯く複襍なる人事中に在りて、利害、得失、正邪、曲直の在る所を弁し、取捨趨避、各其宜に適うは何の術に由りて之を能わせん。況や今日宇内相交通し、異種殊族の人、一場に在りて、技を較べ業を闘わしめ、優勝劣敗、生存競争を試むるの秋(とき)に於いてをや。皆是れ正確の知識を備るに非ざれば能わざるなり。故に今日の青年たる者、其の知識の発光は、特り事物の表面を照輝し得るに止まらず、深く其の薀底入て、反って背後に透出する程の文量なかる可らず。吾人が日々従事する所の、理化算数、地理歴史、図画経済、内外語文等、普通の諸学科は、此の分量を与うるに十分の価あるものなり。本学の教育は、倫理の義を以って徳育とし、武技練兵を以って躰育とし、普通諸学科を以って知育とす。三育並進して偏傾せず、一个国民たるの資格を完せしむるに至り。是れ蓋し文明の学なり。文明の学を講じ、文明の業を務め、文明の国民となりて、国を文明の域に進むるは本学終極の目的なり。

温故知新という。旧きものに真理あり、真なるが故につねに新しい。滔々つきぬ白川に宏壮偉大の影うつす(※黌歌歌詞)済々黌三綱領は、まさに終始一貫変わらざる真の教えであり、いまこそ天下に先んじてこの正しき原点に返り、将来向かって力強く巨歩をふみだす絶好の時で、済々黌百年の意義もここに存すると信ずる。

■転記元資料
・『済々黌百年史』 P 176〜177
・昭和57年10月印刷 昭和57年11月発行
・発行所:済々黌百周年記念事業会 熊本市黒髪2丁目22番地1号
・編集 :委員長 本田不二郎
・印刷所:株式会社城野印刷所 熊本市琴平1丁目4番1号

■木村弦雄
・済々黌 第3代黌長(明治22年〜明治27年)
・詳しくは『済々黌百年史』P 944〜945参照のこと

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井芹経平黌長の三綱領の解説

第5代黌長 明治29年〜大正15年

大正7年に発行された『多子読本』のなかに第5代黌長の井芹経平先生による「三綱領の解説」があります。その収録文を、読みやすいようカタカナ表記をひらがな表記にあらため、見出しを付記し、読みにくい漢字や語句には注釈や言い換えをつけました。また現在のPCに入っていない漢字は新しい漢字で置き換えています。
もともとの文章は『多士読本』でご確認ください。

例言

一.本社編著の目的は郷土的知識の普及を圖(図)り、依って以って愛郷心の涵養と倶に健全なる忠愛精神の発揮に資せんとするにあり。題材中『我が大日本帝国』および『明治天皇』の二篇を加えたるは、実にこれがためなり。
一.本書は副読本として、本黌生徒に課するものなれば、なるべく叙事の簡明、行文の平易を旨としたけれども、中には必ずしも然らざるものあり。これ題材の性質等によって、勢い已(止)むを得ざるものあればなり。 
一.敬語敬称は、皇室にかかるものの他、一切省略に従えり。敢えて礼意を缺(欠)くにあらず。ただ一般史伝の条例に遭へるのみ。
一.本書は昨年七月、始めて編著の議を決し、爾来本黌職員、武田雄三、三城豊造、平野乍、楠田鎮雄、坂本隆知、金津正夫、石原醜男、宮崎奈良治、高田邦彦、池邊用太郎、貫正雄、福岡収蔵、綾部直熊の諸子ならびに余の手において、それぞれ分擔(担)起草し、さらに武田平野金津石原高田の五氏を挙げて委員とし、余もまた之に加わりて、整理編纂の任にあたれり。
然るに職員諸子、本務多忙にして、力を此れに専らにし難きものあり。且つ余今秋十月を以って、将に欧米漫遊の途に登らんとして、悠々倶に筆硯に従う能わず。ために事実の検証文辞の洗練等につき、なお遺憾の点少なからざるべしと言えども、さらに他日の斧正を期することとして匆々(早々)印刷に附せり。読者諒せよ。大正6年9月下旬 済々黌長 井芹経平

三綱領

三綱領は我が済々黌の創立せられたる根本の精神なり。吾人は之を以って本領とし、生命として、終始一貫、以って其の修養に自彊(強)不息(じきょうふそく)ならんことを期す。此の如くするは即ち教育勅語の聖旨を拳々服膺(けんけんふくよう)する所以なり。

正倫理明大義

人生最高の目的は、正善の道念を社会に実現して、以って究極するところなきに存す。而して此の正善の道念は、漫然として実現し得るべきものにあらず。必ず一定の準則なかるべからず。故に吾人は恒に倫理を正しうし、道義に本づき、誠意誠心、以ってこれが実行に力(努)めざるべからず。それ忠孝一本の大義は、我が帝国国体の精華にして国民道徳の歸趣なり。故にまず此の大義を明らかにせば、諸般の倫理は自らその秩序を得るに至るべく、而してこれを実行して終始倦怠する所なきは、即ち正善の道念は至高至大にして、人生何物も之に比部べきなく、何物も之に加うべきなし。之を実現するは、是れ吾人畢生の目的にして、吾人の崇高なる敬虔心は、即ち此れにありて存するなり。

重廉恥振元気

為善の志操(意思)を確守し、弊倫の聖堂を実践して、以って人生の業務に邁進努力せんとする者は、よく晴明に、よく仁愛に。よく剛健に、是れ兢業(きょうごう=おそれつつしんで物事をこなう様子)として自彊不息の精神を存し、凛として一貫する所なかるべからず。若し夫れ此の精神にして薄弱ならんか、是れ即ち廉恥真の萎靡せるものと謂うべし。吾人は此の高潔純一なる廉恥心を有するが故に、自ら破邪顕正(じゃを破り正しい道を示すこと)の活気、英邁進取の元気、磅礴(ほうはく・みちあふれるさま)して止まざるものあり。而して此の心気の渾然として一体なる所は、吾人人格の根底なり。此の根底を体認するするところに、安心立命は自ら存するものなり。

磨智識進文明

人生大小の業務は智識に頼りて進歩発展す。而して其の知識は、必ず能く研鑽を加え、磨礪(まれい=みがきとぐこと)を施すを要す。百般の智識は研磨を経て、その精なる者は愈々(いよいよ)精に入り、其の微なるものは愈々微に進む。是に於いて学問技芸の基礎は、いよいよ鞏固なるを得べし。且つ所謂聡明叡智の知徳は、学識に、研磨精錬を加えたる、最も純明なる知能に他ならざるなり。吾人の有する健全なる常識と、博厚なる知識と純明な知能とは、実に是れ文化発展の原動力たるものなり。

■転記元資料・『済々黌読本』
・大正7年5月5日印刷 大正7年5月10日発行
・著者名 :中學済々黌
・代表者 :森崎武眞
・発行所 :金港堂書籍株式会社 東京市日本橋区本町3−17
・大賣捌所:合名会社長崎次郎書店 熊本市新町2−15

■井芹経平
・第5代黌長(明治29年〜大正15年)
・詳しくは『済々黌百年史』P 948〜949参照のこと

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本田不二郎先生の『三綱領解説』『三綱領の現代的意義』

昭和14年から昭和42年まで済々黌で教諭、教頭を務める。
昭和46年から昭和48年まで熊本県立熊本高校校長。

以前武道場だった建物が、いまは済々黌資料館としてさまざまな文物を保管展示するスペースになっています。入り口で配布されているのが「本田不二郎先生による『三綱領解説』」。その内容を転記しました。また後半には1982年から刊行された『済々黌年史』に収録された本田不二郎先生の『三綱領の現代的意義』を転記しました。

本田不二郎先生による『三綱領解説』

戦後占領下の教育改革は、日本人の自信喪失、アメリカ一辺倒、マルクス主義の浸透など、異常な心理的傾向のものとでおこなわれたので、現代の思想を以て古いものは何でも悪いとの殺し文句で否定する偏向史観や、自虐思想の横行、またその間流言蜚語も飛び交い、当然残しておくべきものまで弊履のように捨てて、悔いを残すことも多かった。

明治15年2月11日、済々黌開黌に当たって佐々友房黌長は三綱領の大綱(※別の言葉を使用されているが漢和辞典や広辞苑にもない漢字なのでほぼ同じ意味の語句で補遺)を掲げられたが、特に第1章の「倫理を正しうし大義を明らかにす」jは、熊本における10年の役(※西南戦争)のあと、嚮う(※向かう)ところを失っていた郷党の子弟教育を憂えて、儒教思想の中心をなす五倫の「君臣義あり 父子親あり 夫婦別あり 長幼序あり 朋友信あり」に基づき最も大切なものと信じて掲げられたものであった。

しかし、戦後の民主主義が叫ばれる中にあって、戦時中「忠君愛国」の精神を鼓吹する方針として強調された「大義を明らかにす」の部分はいかがなものかとの危惧の声も聞かれたので、ときに杉原春作黌長は、本黌の大先達、漢学の第一人者、東京大学名誉教授宇野哲人博士に意見を聞かれたところ、博士は「もともと大義とは大いなる正しいすじみちという意味で、物事の道理を探求するのが学問だから、これまでも学校で普段やってきたことであり、何も心配には及ぶまい」との意味の懇篤な回答を頂いたので、本黌としては、その積りで肚を決めていた。

あの、米軍占領開始のはじめ、或る日軍政官(ピーターセン)の学黌視察があって、案の如く「大義」の意味を尋問された。その時杉原黌長は、通訳として随行した岡本亮介(元・済々黌教諭)と咄嗟に計って「グレート・ソーシャル・サービス」と答えられたところ、軍政官は心よく了解して、無事に視察を終了した。当時この視察は、学黌存続の成否にも関わる重大事項であったから、末席を汚していた教師の一人として、はらはら固唾をのんで事無く視察の終わるのを待った極めて印象深い出来事で、職員会議に臨んで今日の成果報告の杉原黌長の穏やかな童顔と、ほっとした喜びの笑顔と声も忘れ難く、幸いにも軍政官への機知的名訳が成功したエピソードも紹介しておきたい。

かくして中学より高校に昇格、他に類を見ない恩師・行幸の二大栄光に浴した歴史と伝統を矜持して、学業・体育・文化各方面に活躍し、或いは職員生徒代表が飯田・佐々・井芹・木村歴代黌長のお盆の墓参りを行って、感謝と現況の報告にいそしむ黌風が今日も続き、三綱領をそのまま済々黌高校の全人教育、すなわち人間形成の方針として現在に及んでいるのである。

『三綱領の現代的意義』

三綱領は済々黌の創立に当たり、世を挙げて欧米科学文明模倣、功利主義的風潮下の混沌たる時代思潮と立身出世をスローガンとする智育偏重の公教育に対抗して掲げられた。当時としては全くユニークな次元の高い教育方針であった。

佐々先生は人間形成の上で道徳(精神)は本体であり、智識(物質)はそれぞれ相助ける作用であり、本体と作用は必ず一貫しておらねばならぬと言っておられるが、まさにこの思想にもとづき構成されたすばらしい教育の指針である。

すなわち当時公教育の「器を作って人を造らず」の重大な欠陥をいち早く看取し、徳体智の三育併進によって知情意のバランスのとれた、人間性豊かな国家社会有為の人材、いわゆる済々多士の育成を期したものであった。

『済々黌歴史』に佐々氏は「我が黌の主義はすでに三綱領にあきらかなり。『磨智識進文明』は世あるいはこれあり。『正倫理明大義』に至りては滔々たる一世の風潮、余輩未だこれあるを聞かざるなり。おいてこれ我が黌は世の為さざる所を先にし、世の為す所を後にせんとす」と。なんと自信満々の抱負の宣言だろうか。

しかし何しろ当初済々黌は、いわゆる「時代の逆流」に立っていたので、官民両方の圧迫があり、非常な苦境に立ったこともしばしばであったが、それでも精神一到何事か成らざらん之の熱を意気とをもってやってるうち、はからずも明治16年、帝室好文の思し召しにより、破格の恩賜の光栄に浴し、勇気百倍のところに、さらに明治20年、初代文部大臣森有礼氏の九州巡視にあたり、本黌を親しく視察して帰京後、全国知事会議の陛下ご陪食の席上「恩賜にふさわしい天下の名校」と絶賛した。ここに済々黌の名声は一躍全国に轟き、また当時新設されつつあった旧制一高・五高などの黌風造りにも影響を与え、また文部省当局の教育改革の指導精神ともなり、爾後森文相手あつい庇護のもと、県下唯一の尋常中学として将来の大飛躍が約束された。教育県熊本の名称もこのへんに淵源があったことは否めないところである。名は実の賓とか、済々黌の名声はまさにそのバックボーンである三綱領の価値の表現である。

佐々先生のあと、井芹先生がその負託に応え、さらに清明・仁愛・剛健の三徳を掲げ、心血を傾注して子弟の薫陶と黌運隆昌に尽瘁(じんすい=全力を尽くして疲弊する)され、以て本黌を盤石の重きにおき、黌風巍然(ぎぜん=すぐれているさま)今日の隆昌を見るに至った。

さて現今の世相を顧みるとき、道義すたれ、正しき愛国心は影を潜め、厚顔恥を知らざる行動はちまたに満ち、怠情安逸をよしとする気風の横溢する現代は、まさに済々黌「三綱領」の生まれた時代と相通ずるものがあると云わねばならぬ。

温故知新という。旧きものに真理あり、真なるが故につねに新しい。滔々つきぬ白川に宏壮偉大の影うつす(※黌歌歌詞)済々黌三綱領は、まさに終始一貫変わらざる真の教えであり、いまこそ天下に先んじてこの正しき原点に返り、将来向かって力強く巨歩をふみだす絶好の時で、済々黌百年の意義もここに存すると信ずる。

■転記元資料
・『済々黌読本』
1998(平成10)年 8月吉日 同窓生 本田不二郎・金津安貞
・『済々黌年史 第1号』
P 136〜137

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一瀬恭巳黌長の『現代の視点に立った三綱領』

第17代黌長 昭和51年〜昭和56年

『済々黌百周年史』のなかでタイトルだけ触れられている一瀬恭巳先生の三綱領の解説。長らく埋もれていたようですが、140周年記念広報サイトを制作するにあたって探し回ったところ、済々黌構内の資料館で原本を発見しました。非常にわかりやすい説明ですので、ここに転記します。

前段

本来、綱領とか教義とかいうものは、中核の精神や情熱さえ確固としていれば、できるだけ煩瑣な限定は少なくて、其の外延を服膺(ふくよう=心にとどめて忘れないこと)する者の解義に任せるというものの方が、ドクトリンとしては優れていると言える。其の点本黌の三綱領は内容といい、用字の選択といい、字面といい、立派にできていて、さすが創設者の見識と気概をうかがうに足るものと言えよう。上述したように、綱領は固定したものと考えるときに、その生命力も限定される。額に掲げたり、唱名のように唱えたりすることの意義はまた別にあるとして、ひとひとの心のうちに、血肉のように活きて伝えられるためには、各人の味読解義の中に、はたと膝を打って思い悟る底のものがなければ難しい。恣意による牽強付会は困るが、原理を活かすものは個であることに間違いはない。

「現代の視点に立った」という題を与えられたが、時代に合わせて解説するつもりはない。現代風というよりは、私風の受け取り方である。したがってこれは私の「三綱領」なのである。生徒のあなた方は之を参考にしてもらって、あなた方の「三綱領」を作って欲しいものである。

1.正倫理 明大義

「倫」は「人」と「侖」との会意形声文字で、「侖」は短冊の竹札をきちんと整理するさま、延いては同類のものが順序よく並ぶことであるから、「倫」はきちんと整えられた人間の間柄という意であろう。すじ道としてかくあるべき人間の間柄を、正常な状態にせよという「正倫理」とは、一体何を意図して綱領の冒頭に挙げられたのであろう。

本黌の創設当時は、明治維新以来15年、西洋に追いつけ追い越せという、いわゆる文明開化の風潮に乗って、公教育は専ら西洋の新しい知識・思想・技術の採用を主眼とし、個人主義的立身出世主義と科学万能・地域偏重が滔々たる世相であった。創設者佐々友房先生は、その欠陥を鋭く捉え、当時見向きもされなかった道徳教育、精神教育を三綱領の第一、第二項に据え、自ら「時代の逆流」を以って任じたため、文部当局からも県当局からも社会からも、甚だしく悪感情を受けていたと聞いている。現今の風潮と比べてみると、また何と奇妙に符合する点が多いことであろう。そして危機の度合いは、100年前よりも遥かに深刻である。

昭和20年の敗戦のために、日本は窮乏のどん底に陥った。生きてゆくためには、死に物狂いで「もの」を求める必要があった。そして其の結果、物質や技術では現在世界のトップレベルに達している。しかし所詮物質は手段であるに過ぎないのであってみれば、次には私たちは「心」の豊かさを見直さなくてはならなかった、それをそのまま私たちは「もの」を追求し、「もの」を謳歌し、「もの」に酔いしれて、「心」のあり方には盲いたまま、20年代30年代と同じ調子で歩き続けてきているように思える。これは、あなた方の世代が作りなしたことではないかもしれない。けれども、その中に生まれ育ったあなた方にも、「心」の裏打ちのない「もの」優先の行く末に、本能的なおそれは予感できるであろう。私たちは、疑いもなく、物質のもたらす便利や快適のために、最も大事なものを売り渡そうとしているのである。古今東西の歴史を繙くまでもなく、大地に根ざすことを忘れた物質文明の極地が、到達する結末は明らかである。今日の風潮は、このまま進行してゆけば、物理的・生理的にだけ考えても、程なく衰退や滅亡に至るであろうことは、かなり明確に予知できる。人間は、機械化・コピー化と共に、単なる歯車、集積回路、スイッチ、キーなどに化しようとしている。土を失った人間の生活環境は、其の精神からも大地を奪って、家庭が、勤め先が、病院が、学校が、社会が、砂漠になろうとしている。人間は「心」を取り戻さなければ、無機の地獄に堕ちざるを得ない。いうまでもなく人間の存立にはインスタントを拒否し、機械化の及ばぬ本質がある。

本質とはそれでは何であろう。小は一挙一動、一言一行のあり方、学び方から大は物の考え方、生き方、価値判断の基準、こういった自分自身の苦しみを通してでなければ真に身につかないものが本質である。人間として生きてゆくのに欠かせないもの、それを身につけるためには、だから、道が二つあれば、勤めて苦しい方を選ばなくてはならない。これは単なる精神主義や禁欲主義とは違う。

あなた方が本黌に入学した時に、私は確か、本校はあなた方に、苦しみに耐える力を養ってもらう所だと訓示したと憶えている。苦しみを通して本質を身につけるという意味で、学校は正に苦しみの場であり、家庭もある面においてそうであろう。そしてそういう場において、骨肉の情、恩愛の絆を忍んで、苦しさを導いてくれるのが親であり師であり兄・姉であり先輩である。それらの人は生きる道の先達であり、考える道の導師である。だから常々言うようにあなた方は親を敬い師を敬い、兄姉を重んじ、長上を重んじなくてはならないのである。それが人倫であり、倫理である。

現今世上には人類愛やヒューマニティの声のみ高く、人倫今や亡しと感ずることのみ頻(しき)りである。老子「知る者は言わず、言う者は知らず。」と言っている。あなた方済々多士の皆さんは、今こそ建学の古に想いを馳せて、時流に逆らい、人道は口にせずとも、倫理を正しくしてほしい。そして富や名声の輝かしさだけでなく、百方廃墟と化すとも、人の世を緑の楽園とする防人となれるような、めいめいの哲学を持ってほしいと思う。

次に「明大義」であるが、この「大義」という言葉は、国家や主君に対する忠義のことだとして戦後問題視されたこともある言葉である。事実、終戦直後に、駐留軍による軍政が布(し)かれて、法律、経済、教育、あらゆる分野がその支配下に置かれて作り変えられた折に、教育の場にも軍国主義の残滓がないかとチェックが行われた。時の熊本の軍政官がこの言葉の説明を求めたとき、通訳が困って、グレート、ソーシャル、サーヴィスと翻訳して、ことなきを得たと言う内輪話も残っているほどである。しかし、この翻訳は窮余の一策とはいえ意外に事の的を射ているのではないかと思われる。この「義」という文字は、部首(分類項目)は「羊」部である。物の本によると「羊」の下に「我」という字を配してあるのは、その時代に人々の代表的な私有財産であった羊について、自己のものを意識し認識し、他人のものと区別する、つまり社会意識、社会概念ということで、これがだんだん転じて正しい道ということになったと言われている。だから先ほど述べたソーシャル、サーヴィス」という表現はあまり見当外れではなかろうと思われる。それは、自己と社会とのつながり。個々の自分たちが形造っている集団、社会への関わり方を意味しているのである。上に「大」が付いているから「大義」とはその社会の中で最も価値の重い社会への関わり方ということである。「国家」以上の社会概念がない環境では当然それは国家に対する忠誠であり、「主君」以上の概念がなければ主権に対する忠誠ということで不思議でも不当でもないわけである。それでは、現代の我々は、どんな「大義」を考えれば良いのであろう。

ある有名な生物学者の言葉に次のような話がある。「アユは生まれた時に、個々の個体に生から死へのプログラムが備わっている。しかし、サルにはそういうプログラムが与えられていない。サルはそのプログラムを個体が学んで身につけなくてはならない。」という話である。アユはプログラムを与えられているから、好んでも好まなくても、時が来れば川を下り、また生まれた川に帰り、生殖を終わると約1年の寿命で死ぬ。だから「年魚」と書く。サルはプログラムを与えられていないから、その生き様は自分で学ばなくてはならない。個体を切り離しておけばどんな生き方でも生じてくる。そして、それを学ぶために、生殖を終えても死に至るまでに相当の余命がある。彼らは集団を通じてそれを保っていく。高等下等の違いよりも摂理がプログラムを追求する時間を与えているのである。

人間はサルよりもさらに長命である。サルよりもはるかに多くのことを学び、知り、作ることができる。しかも先人が到達したゴールに、極めて速く、正確に到達する体系的な方法を持っている。長い余命をゴールから先に向けて使うことができる。「先に向けて」とは我々人類が進むプログラムを知り、そしてそれを後人に伝えてゆくことである。これが私どもの考えるべき「大義」ではなかろうか。

現代は主張ばやり要求ばやりで、何事も要求しないと損という風潮がある。また悪いことはすべてその責任を相手に転化するきらいがある。けれども、私どもの持っている社会というものは、そのような、求めたり責任を負わせたりすれば足りるものではない。それは私どもが構成し、私どもがそのプログラムを考えて、責任を負うていかなくてはならないものである。あなた方の在校時に「学校と名のつくところで、学問のないところはない。ただ何が学問なのかを時々考えよ」という訓示をしたと思う。今まで述べたようなプログラムの模索ということが学問であろう。だからこそ、それは現在でもって終わるのではなく、生涯続くはずのものである。以上「大義」とは、社会への関わり方のことだという考え方を述べた。

済々黌は、この、人間の絆を正し、社会へのかかわりを重んずることを、創設当初から校是としてきた。これが済々黌の伝統である。そしてその精神を端的に表したものが、校訓の三綱領、特にその第1項の「正倫理名大義」であります。それは単純な団結心とか、愛校心とか、連帯感とかいうだけでなく、人間の弱さや、空しさや哀しさをお互いに確かめ合って、その黙契の上に立って、きっちりと結びつけ、という訓(おしえさと)しである。これがなくなれば、人間の社会は滅びるぞという戒めである。本校三万の同窓が、折に触れ、ことに触れて、三綱領を口にするのは、強い郷愁のせいだけではなく、それが人間生活のあり方の哲理を示しているからだと私は思っている。

あなた方が日夜親しんだ「済々黌」という名前の漢字を、じっとよく味わってみてください。「済々たる多士文王以寧。」という詩経の一節は本黌の校名の出典としてよく知られているが、「立派な臣下がずらりと揃っていたので、周の文王は安らかに国を治めることができた。」という、その意味からして、これは国家主義、封建主義の残骸である、民主社会の学校名としてふさわしくないという意見も聞いたことがあるが、君たちが仕えるのは強(あなが)ち封建国家や、周の文王でなくても良いのである。人類の幸福、世界の平和、芸術、科学、真理、いやそんな大掛かりな天下国家のことでなくても、町のしあわせ、村の夢、どんな文王であってもいい、それを支える済々たる多士であってほしいと思う。

2.重廉恥 振元気

「恥」は「わが悪を人に知られて心にハヂと思い耳まで赤らめる」ということで、いわば他人に対するはずかしさであろうが、「廉」は清廉、廉直などと熟するように「イサギヨイ」ということで、いわば我が身を顧みて何の疚しさもない心境のことである。「天のなせる禍は猶違(そむ)くべし。自らなせる禍は逃げるべからず」と孟子が言っているが、他人に対する恥ずかしさは、堪えたり薄くなったりできるにしても自分に対するはずかしさは生涯心から消えることがない。

三十数年前、あなた方には想像もつかないような、食べ物に不自由するという時代があった。主食は統制品として配給され、それでは不足するため人々は皆一様に法をくぐって米を買い入れ、命をつないだわけである。ところが一人の裁判官がいて「自分は法の番人である。法の番をする者が自ら法を破るわけにはゆかぬ。」と言って闇米(今風には自主流通米)を買い漁ることを拒み、遂に栄養失調のため命を落とすということがあった。当時の世相は、これに衝撃を覚える余裕もないほど、我が身を保つのに急であり、中には愚直の謗りを与える人もあった。

私も、命に代えても正義を貫けと説く勇気はない。また寝ても覚めても、どんな小さい不正も斥けられるほど、人間は聖人君子を通せる者ではないかもしれない。しかし生涯に何度かは、右しようか左しようかと去就に迷うことが必ず起こるに違いない。自分の生き方の大筋を決める、そのような重大な岐路にあたっては、あなた方には願わくば汚い道を選んで欲しくないと思う。現今の風潮は、非違を犯してもそれを隠し、悪が露われても記憶にないと言い張って、それが通れば儲けものというのが大勢であるが、かつて某大学の学長が、卒業式の席上で卒業する学生に向かって「肥えた豚になるよりは餓えたソクラテスになれ」と説いたのも、このような世相に反抗する廉恥を教えたのだと思う。

あなた方はどうか時流に負けず、その判断の岐路が重大であればあるほど、己にも他人にも恥ずかしくない、背筋をぴんと伸ばした凛然たる道を選んでもらいたいと思う。

次に「重廉恥」の下に続いている「振元気」ということであるが。とかく「元気」という言葉は、現今「お元気ですか」とか「元気なお子さん」とか用いられることもあって「振元気」というのは勇壮活発に振る舞うこと、旺盛な体力を養うことという語感があって、三綱領の解説にも、第1項は徳育、第2項は体育、第3項は知育であって知徳体を併せ説いた人間教育の綱領であると説いてある向きもあるようである。しかし「元気」という漢字は疑いなく現代語では転用俗用されていて「気」という語がつく以上、本来は何かの性質を持った「気」である・そのことは第1項の「正倫理」とその下の「名大義」、第3項の「磨知識」とその下の「進文明」とがそれぞれ同一の事柄についての概論とディテール、目標と実践という関係にあることから類推しても明らかで、「振元気」とは「重廉恥」の実践に伴うに構えの教えであろうと思う。「元」とはハジメ、語源の意味で「元気」とは人間生活の根源となる精神活動。気力のことであってはじめて「重廉恥」との語呂が合うことになる。

それでは現今の時潮に照らして、あなた方はどんな「元気」を振るえばよいのか、私はそれを、苦しみに耐える力、抵抗力を養うことだと思う。

現今世の中は非常に便利になり、快適になって、苦痛は悪徳であり、苦痛を避けさせるのが、家庭も学校も、社会も最大の美徳であるかのごとき風潮がある。あなた方大体において、そのような恵まれた環境の中で生活の大部分を送ってきたものと思う。しかし、人間がこの世に生きてゆくための物心さまざまの苦しみ、成長に伴って通り抜けなければならない難関や障碍、といったものの量も質も、古今東西を通じてそう変わりがあるとは思えない。そうすれば、今までに苦痛の少ない時を多く過ごしていればいるほど、新たな苦しみは大きく強く感じられることであろう。苦しみの中でよくによく対処してもらいたいのは、事が自分の思い通りにいかない時の苦しみである。人々は皆それぞれのエゴを持っているから、それがすべて一致適合することはあり得ないことで、世の中のことは自分の思い通りにいかないことが、むしろ普通だと思わなくてはなるまい。その度に怒り、怨み、憎んでいては、世の中や怒りと憎みと怨みの人ばかりの、地獄とならなければ仕方がない。戦さを放棄しなければならないのは、国家ばかりではないのである。

現代は主張ばやり要求ばやりであって、何事も要求しなくては損という風潮がある。しかも悪いことに、自己の利益を主張するあまり、それに伴う他人の不利益はなおざりにする勢がある(原典は「す勢がある」と記載→「…という人々がいる」という意味と推測)。自我は──純粋な意味での自我は、主張するのを躊躇すべきではないであろう。言うべきことを言うのは、それこそ典型的な「元気」なのであろう。しかし自我の主張は、即、他人に要求することではない。

現今、老若男女を問わず、欲望充足の安易さが滔々たる風潮である。金銭が必要になれば銀行強盗、誘拐…。これは動物の世界にも見られない論理と倫理の短絡ではなかろうか。しかもその安易さは欲望が充足できない場合には、自己に向けられて、自殺という道を選んでしまう。あなた方はどうか物事が自分の思い通りにならない苦しみに処するときに、自分の心情を安易に自己にも他にも向けないで、じっと苦しみに耐え、苦節を忍び、苦しみこと豊かさであることを信じて、明るい冬の陽光を待つだけの「元気」を振ってほしいと思う。

3.磨知識 進文明

この第三項は、知育を説いたものと言われている。本黌の創設者、佐々友房先生は、滔々たる科学万能・知育偏重の風潮に、稜々(厳しく激しいさま)たる反骨精神を示して、ことさらこの項を最後に据えられたと記されている。しかし佐々先生が真に知育を忽(ゆるが)せにすべからざることを痛感しておられたことは、先生常住の言行や、創設当時の本黌の教育課程が、当時の中学校の標準を、質量ともに遥かにかけ離れたものであったことから、明確に読み取ることができる。

それでこの第三項に盛られた知育重視の意図は、はたしてどのようなものだと考えるべきであろうか。なるほど中国の古典においても「智を去りて明あり。」とか「之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず。」などと、「知・智」というものを、一片の才知、単に頭で理解されたものとして、軽く位置付けている傾きも少なくはない。けれども本来、「知」は「矢」と「口」との会意文字であり。矢のようにまっすぐに鋭く物事の本質を言い当てることである。「識」はもとより物事を判別し見分けることだから、「知識」とは、聡明な判断力、洞察力、価値観、あるいは、すべての学の基をなす哲学のようなものではあるまいか。「智」という字は「知」と同系のものであるが、それを用いた「知識」とは、仏語で五識の一つである物事を判断する力を謂い、「善知識」とは、人を善道に導き入れる働きをする、高徳の僧を謂うのも、思いあわせれば、宣なる言葉ではないか。

さすれば、「知識」とは、学び知られたものの集積というより、学び知る眼のことであろう。知性、理性、悟性等を併せた、人間の心の最も聡明な働きを謂うのであろう。さればこそ、「知識を磨く」と説いてあるのであって、「知識」を「集める」とも「積む」とも「増す」とも言ってはないのである。現今科学の発達は、機械をして人間の働きの大部分を補填し代用させるようになっている。昔数十時間かかっていたものが、ほんの一挙手、一投足によって、遥かに簡単に、遥かに精確に、そして数多く達せられることは枚挙にいとまがないほどである。けれども物質文明は、どんなに高度に発展しても、哲学の分野にまで踏み入れることはできない。計算機はいかに精巧になっても、数の概念や数理を人に供与するわけにはゆかない。「知識を磨く」とは、現代利便や快適によって忘れられ、奪い去られている心の眼を、錆び付かせるなという戒めであろう。

つぎに「文」が美しい模様から転じて広く美を表し、「明」は明るく華やかなことであるから、「文明」とは、人間が理想の実現のために作りなした精神的、物質的な所産全般のことである。前二項と同様この第三項も、前段と後段の構成には個人的具体的なものから、社会的概念的なものへの発展という意図が見られることから考えれば、「知識を磨く」の路線からして、この「文明」は主理想の精神的な所産、つまり学問・芸術・政治から延いては美・幸福・平和・友愛等の、人類の冀(こいねが)う理想の極値を謂うものように思われる。同窓の碩学、故宇野哲人博士のお言葉によると、もともとは「文明に進む」と読んでいた由であるが、「文明」というものを、遠い彼岸の手も届かぬような高嶺と感じていた蒙昧の時点ならともかくとして、基礎条件も基礎能力も備わったあなた方の場合は、ふだん読んでいる通り「文明を進む」でよいと思う。

要するにこの項は、聡明な洞察力に磨きをかけて、人類永遠の資産をますます高めるようにとの、それこそ本当の知育の教えである。その意味では、いまだかってどんな場所でもどんな時にも、十分な知育というものが見られたことがないことを思えば、本黌創設者が広大の我々に向けた期待や負託の重さを感じないわけにはゆかない。

老婆心までに蛇足を加えると、あなた方本黌生は、描く夢の壮大であるあまりに、悪くいうと大言壮語のきらいがあり、知育についても「知識」の意味する聡明な眼のことを曲解して、どうもすれば地道な平常の鍛錬を軽視する傾向に拍車をかける恐れが多い気と思う。洞察力、判断力は、機械的とさえいえる不断の勉学や訓練に、浸かり果てては望み得ないと同時に、それを抜きにしては単なる妄想に陥る危険がある。物を展望する眼は、展望することを忘れた、地上を這いずり回るような、ひたむきな精神から生まれることを忘れないでください。

以上冗談を費やして、私の「三綱領」像を述べてみた。初めに言ったように、「済々黌」という沃土と、「三綱領」という種子は、すでにあなた方に向かって提供されている。あとは、あなた方一人一人の耕耘栽培(たがやし育てること)によって、大輪の花と、充実した果を期待するだけである。

■転記元資料
・資料名 :定時制過程閉止記念誌『黌友』(蛍雪39年の思い出)
・発行  :1982(昭和57)年1月1日
・編集発行:熊本県立済々黌行動学校定時制同窓会 黌友会
・印刷  :松本印刷(昭和35年卒) 熊本市坪井3−1−26

■一瀬恭巳
・第17代黌長(昭和51年〜昭和56年)
・詳しくは『済々黌百年史』P 955参照のこと

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分かりやすい解説

2022年

これまで偉大な先生方が「三綱領の解説」をしてこられました。
時代は変わり今年(2022年)は創立140周年。100周年ではなく150周年でもない。そんな周年記念ですから「普通の人が三綱領を解説するとどうなるか」という視点で、現代社会における三綱領の解説を試みてみました。担当した私は30年ほど広告畑でコミュニケーションを研究してきたものですから、解説はブランドによる組織論の手法を援用しています。ご笑覧ください。

三綱領の解説の解説

創立140周年にあたって改めて私たちにとって三綱領がどのような価値を持つのか。それを考えるには先人がどのような価値を説明していたのかを知るのが手っ取り早いですよね。
私もそう考えて調べてみたところ、以下のような先行の考察があることがわかりました。

1.佐々友房先生の「三綱領の解説」
2.木村弦雄先生の「三綱領術義」
3.井芹経平先生の「三綱領の解説」
4.本田不二郎先生の「三綱領の現代的解説」
5.一瀬恭巳先生の「現代の視点に立った三綱領」

それぞれに大変丁寧に説明されています。
よく読むと今の時代に三綱領を理解するために大事なことも書いてあり、時代ごとそれぞれに三綱領の意味するところを生徒にわからせようという努力が読み取れます。

これらの解説は文意によって3つに分類できます。

1.三綱領の文言を理解するためにその文意を解説
木村先生と一瀬先生の解説が該当します。
2.三綱領を理解するためにその周囲環境や経緯を説明したもの
佐々先生と本田先生の解説が該当します。
3.三綱領を行動成果に結びつけるために言葉を変えて説明したもの
井芹先生の解説が該当します。やや「檄」が入ってます。

おなじ「解説」といっても、これほど違います。
皆さんはこのページに来る前に多くの方は先生方の「解説」のほうを先に目を通されたことと思います。
「読んでもよくわからん」と思われた方も多いでしょう。
ぜひ、上記の三文類を理解した上で、さらにこの「現代」の解説をお読みになったあとにもう一度目を通してみてください。その時代を生きた先生方の思いに胸を熱くされると思います。

佐々友房が三綱領を創った動機とは

さて、このサイトを創るにあたって、熊本の近代初期の様子を調べました。
その際に大きく参考になったのは渡辺京二さんの『近代の呪い』という本です。近代化とは一体何だったのか。とくに一般民衆にとっての近代化とは何だったのかがわかりやすく書いてあります。

『近代の呪い』 平凡社新書 思想史家 渡辺京二氏著

このなかで近代化とは「領民が国民になること」とあります。しかも新生明治日本は西欧列強の権益拡張が跋扈する「インターステイトシステム」の真っただ中。この2つの状況への気づきが済々黌創設者である青年佐々友房を目覚めさせ、教育の道へと進ませたのではないかと考えました。

佐々友房の開眼の大きな契機となったのは西南戦争。西南戦争は士族による日本最後の内戦です。友房も士族という自意識のもとに熊本隊小隊長として池辺吉十郎のもとで挙兵しました。
友房たちは田原坂の近くに布陣し、田原坂の次に重要な要衝であった吉次峠で戦闘に突入します。熾烈な戦闘が続きますが、田原坂方面の劣勢を受けて退却。そのあと熊本城東会戦という広範囲の戦闘で御船戦線を官軍に突破され、薩軍側は山都へ退却。その後薩軍は人吉で立て直しを図りますが、熊本隊は各所で戦いながら鹿児島北部から宮崎方面へ逃れ、延岡の近くで官軍側に投降しました。

その間に友房が目にしたことを推測します。
士族は江戸期を通じて国と藩の政治行政を担いました。時習館などの藩校は主に士族を対象とした政治行政のビジネススクールです。
明治維新のあと、明治政府は当初から国民育成のために教育改革を毎年実施していきます。国民とは、日々の生業だけではなく政治・行政まで担う人々のことです。そのためには公的意識を持つとともに政治行政を理解する知識が必要です。しかしそれまで領民として暮らしてきた人々は政治行政に携わったことはなく、もちろん意識もありません。さらに多くの人々には子どもたちを学校に行かせるゆとりがありませんでした。つまり社会の様子は明治維新があったからとはいえ以前とさほど変わらなかったのです。

佐々は地頭のいい人だったといいます。藩校や私塾では海外情勢も学んだでしょうから、新しい時代の到来を知ってはずです。しかし「身になった知識」にはなってなかったようです。
だから「士族として」世の中を糺すために立ち上がりました。そして実際の戦闘で官軍、いわゆる国民による軍隊ですが、つまり平民による軍隊ですね、そんな軍隊にコテンパンにやられてしまいます。大切な戦友も失います。官軍は電報通信によるロジスティクスを駆使し、的確な軍事行動で迫ってきます。

そうして敗走するときに彼は人吉や宮崎で出会う村人を「土人」と日記(『戦袍日記』)に書いています。この頃の土人には差別的な意味はありません。しかし同じ国民と見ていないことは確かです。 「他の藩の領民」と意識しているわけです。

山都の男成から人吉に逃れる途中で、彼は敗走する自分を唐の詩人に見立てて漢詩を作りました。
雨撲戦袍捲沙。江山十里両三家。壮圖一蹶無窮恨。立馬断橋看落花。

彼が「本歌取り」したのは杜牧の漢詩。後唐の世にあって陳王朝の時代を懐かしみつつ、当時の唐王朝の権力者たちへの政治的風刺を効かせたもの。
そこにあるのは強い敗北感ですが、佐々が漢詩を記したときにあったのは知識層を自認する士族としての感覚を感じます。

そうした彼がそののちに三綱領を生み出すまでに体験したのは、負傷・投降・裁判・慕い付き従ってきた先輩たちの刑死・牢獄生活・病気による出獄と蟄居生活・仲間たちとの再会です。

戦後処理のなかで明治政府・九州臨時裁判所の名の下に裁判が行われました。勝者が敗者を裁きますから公平な裁判ではなかったという話があります。しかし裁判そのものは明確な判断基準に則って事務的に行われました。友房の裁判記録も残っています。今年(2022年)5月に『西南戦争「國事犯裁断書」翻刻 熊本縣人編 その一』が西南戦争研究会から刊行されました。そのP23〜24に本人の口述と判決が掲載されていますので、ご興味のある方は読んでみてください。口述書にある薩軍への参加の動機と経緯には「国のため」としながらも士族としての意識と行動であったことが読み取れます。

彼の大きな変化は、士族としての正義感や自尊心から、国民という存在への気づきや自分の役割となすべき道の発見を得たことです。前者も後者も公と自分という構図は変わりませんが、前者には近代国家における国民という概念が抜け落ちていました。政治行政を共に行う国民という人々がいるという意識がありませんでした。

そういう人々と共に社会を作っていかなくてはならない。
気づくきっかけが何だったのか。
戦場では毎日細かに日記をつけていた彼ですが、その心境の変化を詳述した自著のものはありません。

私は以下のように想像します。
自分の視野に入っていなかった平民(=国民)で構成された軍隊に、士族である自分達が徹底的に敗北したこと。自分を教え導いてくれた先輩であり師でもある池辺吉十郎、櫻田惣四郎ほかの人びとが刑死させられたこと。それらを牢獄で噛み締める日々を送るなかで、自分の何が間違っていたのか、生きている自分がこれから何をするべきなのか、日本が舵を切った近代国民国家とは何かを独り考えざるを得なかった。
それが彼の意識を変えたのでしょう。

これからは自分が熊本細川藩の領民と捉えていた人びと、他藩の土人と捉えていた人びとと共に、新しい近代日本を作っていかなくてはならない。
自分たちは幸いなことに江戸期からの藩校で政治行政のための教育を受けてきている。そこで学んだことは政治行政のスキル的な知識もあるが、公の前に自己のありかたを正す儒教をベースにした倫理教育が大きい。
一方、西欧列強のパワーポリティクスの前に弱小日本が立っていくために近代文明や洋学の知性を取り入れ各国と伍していかなくては、私たちの国すなわち「国土・国民・政府」、つまり日常の生活の安寧も存在し続けられない。この心底からの覚醒があって、初めて三綱領が生まれるはずです。
のちに詳しく説明しますが三綱領は「私をどう創るか」と「そうした私が社会にどう役に立っていくのか、どう社会を創っていくのかというミッション」という2つの対比構成で成立しています。

熊本県立済々黌高等学校構内にある佐々友房像

同心学舎・済々黌は学費無料から始まりました。資料を見ると、初期の頃から士族のみならず平民の入学があり、規模の拡大と相まって毎年増加していきました。明治初期の官製熊本中学が、いわゆる権威志向の西洋学問主義だったことに対して同心学舎を創ったという話があります。しかし先述の動機が先にあって、国民育成のためや国民国家社会づくりのパイオニアを育成するために同心学舎を興さざるを得ず、結果として官製熊本中学に対抗することになったと考える方がしっくりきます。ここまでが長い前段です。
ようやく三綱領を語るところまでやってまいりました。

ある日、教頭室でとうとうと叱られていたN君。
ひとしきり叱られた後で、教頭先生から「あの壁の三綱領を読んでみろ」と言われたN君は
「えー、しんましんじゅう…」
左上から横に読んで、さらに叱られたという話がありました。
僕らの同級生のN君の話として記憶にあるのですが、先日鶴川黌長先生と話をしていたら、どうも黌内には都市伝説のように連綿とこの話があるらしいのです。
それが私たちの年代から始まったのか、毎年ある話を私がN君の話として記憶していたのかはよくわかりません。

今回のサイトを作るにあたり、まったく済々黌のことも三綱領も知らないクリエーティブディレクターの田中泰延さんに白羽の矢を立て、担当いただくべく企画提案に伺ったときに、上の6行の三綱領をお見せしました。
すると田中さんは「りんりをただし、たいぎをあきらかにす。れんちをおもんじ、げんきをふるう。ちしきをみがき、ぶんめいをすすむ。」とスラスラと読まれました。
このことからも三綱領には文字面だけではなく、知識ある人にはわかる文章の構造があることがわかります。
また、そもそも三綱領とは何かという問題があります。
近年では「三綱領は建学の精神」とよく説明されています。
では建学の精神とは何か。
私たちコミュニケーションをデザインする者は、よくわからないことには「なぜ?」を5回繰り返せと教えられます。しつこいのです。
ただ幸いなことに、この場合は解が示されていました。佐々先生の「三綱領の解説」の冒頭に「三綱領は実に本黌教育の目的を示したるもの」と書いてあります。
一般的に教育の目的は人づくりです。
本質的に教育の顧客は社会です。
つまり三綱領は「済々黌の教育」の成果として生みだす「あるべき人物像」を言葉にしたもの。自己と、自己と社会とのあり方について述べています。

目的とは「的とするところ」。つまり最終目指すべきところです。
目標とは「目的への過程途中の道標となるところ」。つまり中途達成する基準点です。
三綱領は学内生活の目標ではなく、済々黌に学ぶ人間が「ひとりの人物として人生において到達すべき像」を言葉として友房が示したもの。
卒業して長い済々黌といわれますが、済々黌の呪縛?というか教えは、人生そのものへの教えなのです。

三綱領の一般的なイメージについて

とは言っても、漢字の列が3行になったところでよくわからん。
そう思ったあなた、全く問題はありません。
今回(2022年時点)、サイトをつくるにあたって現役生徒の皆さんにヒアリングしたところほとんどの皆さんが「よくわからない」と答え、OBの皆さんも「現役の頃はいっちょんわからんかった」と笑って話され、先生方も「自分達で意味を見つければいいんだよ」というお話をされています。
ただ、一部のOBの方にはきっちりと三綱領を自分の言葉で表現される方がおられたことは申し添えておきます。

済々黌に関係する老若男女の皆さんに伺った「三綱領に書いてあること」を大まかにまとめたらこうなりました

三綱領には「倫理」「大義」「廉恥」「元気」「知識」「文明」と、わかりやすい名詞が散りばめられています。それぞれ大事な言葉であることは文字を見るだけでわかります。それが上記のなんとなくの好感を生んでいるのがよくわかります。
また「大義」の意味づけをどうすべきかという悩みも生まれやすいですね。

今の時代、この三綱領をどう読み解くかについては
1.ことばの原義を確認する
2.名詞だけではなく動詞に着目する
3.3行の構造を読み解く
そして時代背景を現代に移して考えることが必要です。ただ、読み解きの意欲として問題意識を自らに喚起するために、まず時代背景を整理するところから始めてみましょう。

今の社会はVUCAの時代だと言われます。
VUCAはブーカと読まれます。ブースカみたいでなんだか変ですね。
Volatillity(変動性)、Uncertainly(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字をとった造語です。
「先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態」を意味します。
現代もそうですが、想像すれば明治の初期もまた相当なVUCAな時代だったことがわかります。
海外情勢ではアヘン戦争で列強が中国をボコボコにして東洋的封建社会の脆弱性があらわになるとともに、プロシア戦争やクリミア戦争が起こりインターステイトシステムによる冷徹で悲惨な現実や近代国家の強大さを弱小日本は突きつけられます。
国内では旧来の社会システムがガラリと変わり、士族はアイデンティティを喪失し、貨幣経済が急速に浸透し、殖産興業政策のもとで新たな貧困層が生まれてきます。
立憲君主制国民国家として立ち上がった日本国は否応なしにインターステイトシステムの真っ只中で、列強と対峙せざるを得なくなりました。そうして富国強兵を進める道を採ります。
その最中に生まれた済々黌と三綱領です。当時としては立憲君主制ですから、自己と公を考える時に君主との関わりを内包することになります。

それから幾星霜、太平洋戦争や大地震や津波を乗り越えて現代となりました。熊本という位置地域にあっても、明治期からすると想像もつかないほど私たちと世界とのつながりは大きくなりました。
消費社会面では強大な経済成長を生み出した大量生産大量消費は後退し、大衆社会から小衆・分衆の時代が来て、WEB2.0が一般化した頃からさらに個衆(はたしてそれは衆と言えるのか?とはいえ個が緩やかに集まる現象もありますね)の時代が到来しました。
欲望社会が地球環境に及ぼす影響への注視が高まり、SDGsやソーシャルデザインということばも定着してきました。
そして世界的な疫病による閉塞感と経済の停滞が私たちを覆ってすでに2年。加えてロシアによるウクライナ侵攻によって世界平和が脅かされています。共産主義覇権国家はロシアだけではありません。日本を含め多くの民主国家の国民がその前時代的な脅威を身近なものとして捉えざるを得ないことに戸惑っています。それでも私たちは未来へ生き延びていかなくてはなりません。このような社会認識の下で、創立140周年の三綱領解説を進めていきます。

三綱領の構造

私たちコミュニケーションを創る職種の人間が人を動かすためのコンセプトやキャッチコピー、ブランドステートメントなどの言葉を創るときの鉄則。それはその言葉にベクトルがあることです。たとえば倫理という言葉は、それだけではただそこに在るだけです。ですが「正す」という動詞を与えることにより、方向性と強さがイメージされます。「持つ」でもなく「身につける」でもありません。「正す」というからには相当自分に対して厳しく律していく、律し続けていく精神が問われます。そうして見ると、三綱領はそれぞれの動詞が大きく強い意味を持つことがわかります。
「正す」「明らかにす」「重んずる」「振るう」「磨く」「進む」は、全て「持つ」「身につける」でも成立しそうなものですが、それでは理想の人間像としてはチカラ不足ですね。

三綱領は6つの要素が、2つずつ対置され大きく3つに分かれています。
それぞれの節は前半が「自己の錬成」で、後半が「その自分をして社会に対してやるべきこと」が書かれています。自ら錬成した自分が、社会にどう役に立ち、世の中を創っていくのかということです。

わかりやすいのが第1節です。倫理を辞書でひくと「人として踏み行う道」と出てきますが、大義にしても「人として踏み行うべき道」と出てきます。ただし大義はそのまえに「(国家・君主に対して)」という一文が入ります。(引用参考:三省堂『新小辞林』)そこで三綱領の「大義」は国家主義であるとか封建的であるというのは早計というものです。「大義」には「国家・君主に対して」と使われる前に、原義があります。詳しくは一瀬先生の「現代の視点に立った三綱領」をご参照ください。

こうして見ると、倫理を自らの中に確立して正しく持った自分が、社会のあるべき道を「明らかにす」。ここでの「明らかにす」とは「自らはっきりさせる」つまり「先頭に立って顕在化していく・形にしていく」という自律性と積極性、さらに社会を巻き込んでいくのだという気概が詰まった動詞だと読めます。

正倫理明大義

ほぼここまで説明してきてきたことですが、現代のことばで言い換えると「人としてあるべき道を常に自ら問い行いを究め、その心と行動力でソーシャルグッドを実現する」です。

大義はソーシャルグッド。
日本近代前期には皇室と国体を維持することが先に立ったでしょう。
しかし前にも書いたように、時代と社会が変わりました。今やそれぞれの日本人が捉えている「社会」が異なり、また解決すべき問題も個々のレベルにたくさん存在しています。大量生産時代には隠れていた歪みが各所に出てきた社会が現代なのかもしれません。
そんな時代だから、例えば目の前の伴侶の幸せが、あるいは子どもの幸せが、ソーシャルグッドの第一歩ということも多いものです。
そんな社会の中で自分の倫理を厳しく究め、よりよい社会のために先に立って動く。これが第1節の原意です。何を社会とするか、どのように先に立って動き、形にしていくのか。洋々たる社会を前にして、それは私たち一人ひとりに任されているのです。

重廉恥振元気

古い言葉を調べるには、できるだけ古い辞書で調べてみることです。廉恥について冨山房『新編大言海』(昭和31年3月1日初版・昭和57年4月3日新編初版第二刷)をひいてみると「(廉は清潔の義)心清くして恥の感情の強きこと。廉潔にして羞恥の心あること」とあります。いま私たちが「廉恥」と聞いて想像する意味とそんなに相違はないようです。

佐々友房「三綱領の解説」より抜粋

常に自らの心と行いを振り返り、恥ずかしいことのないように考え行動する。佐々はこの第2節でその清々しい存在感、それこそが士気のもとであり、それをもって全国(社会)を感化させるようにと言い切ります。そうすれば国全体が勢いづくと。そうして世界と伍していくのだと書いています。
これが重廉恥振元気をひとことで説明した文章です。

え?元気は?体力増進は?という反応が聞こえてきそうな気がします。

「元気」を同じように『新編大言海』で調べると「①天地の大気。万物の、根本の勢力。②人の精神の健全になること。人の精気。③転じて、気象の勢いよきこと」とあります。また『角川漢和中辞典』(昭和40年1月25日第47版)では「①万物の根本の世紀。天地の気。②人の精気。」とあり、(日本の)国語の意味として「①勢い。勇気。威勢。②たっしゃ。健康。」とあります。
三綱領が漢文の体であること、友房の漢詩の素養などから、この元気は漢文における元気の意味で解説するのが妥当です。元気を「天地の根本となるエネルギーの源」とすることで、動詞である「振るう」の意味が初めて生きてきます。

「振るう」を岩波書店『広辞苑』新村出編第2版(昭和47年10月16日 第2版6刷)で調べると
「①ものの一端を持って揺り動かす。②一端を握って勢いよく用い動かす。③発揮する。ふりまわす。④あるだけ全部出し切る。⑤勇み立たせる。はげます。⑥(篩にかけて)よりわける。⑦転じて、価値あるものとないもの、優れたものと劣ったものをえりわける。選抜する。」とあります。
辞書では原義に近い方、古い方から記述されます。三綱領の「振るう」は①、②、③あたりの意味が当てはまるのではないでしょうか。

つまり佐々の「三綱領の解説」の文意から言えば「重廉恥振元気」は、「自分に恥じない心と行いを持ち、その心身を以って森羅万象のエネルギー源となって社会をうごかせ」となります。
自分は小さい「士」一人であっても、廉恥を重んじる一人ひとりがそれぞれ社会の一端から働きかけていくことで、社会を変えるのだという教えです。

磨知識進文明

知識とは世の中の判断基準や構成要素についての情報やことわりのことを指します。それを「磨く」とは、蓄積すること、頭の中で系統立てて整理分類することに加え、自分と社会との関わりの中で実践的な行動に移すために、その情報やことわりを自分なりに自分の行動や社会のありかたと紐づけることを指します。
そうして得た情報やことわりを自分のものにし続ける。
蓄積と紐付けの繰り返しによる高次化が、磨くということです。

文明とは常に移り変わるもの。経済の伸長につれて近代社会は進歩しましたが一度戦乱など社会変動があると退行することもあります。
私たちはかつてオリンピックが行われたセルビアで、そしていまウクライナで、社会の文化文明の後退を見ています。
そんな社会の中にあっても、私たちはつねにより高次の暮らしやすさ、生きやすさ、目的達成のしやすい社会、そして正しい社会を目指して常に文教を進めていく必要があります。それは一人ひとりの知識をもとにした社会への関わり方にかかっているのです。

そうした第3節で三綱領は、未来へ向けて「情報やことわりを常に求め社会に生かす模索を続けながら、人類発展の真っ只中を先導して歩いていく」姿勢を私たちに求めています。

三綱領が生んだ済々黌らしさを作ってきたフレーズ

三綱領の説明としては前のパラグラフで終わりです。ですが「第2節がそういうことなら、済々黌の文武両道はどこへいったんだよ」という声が聞こえてくるような気がします。

そこで補稿として「三綱領が生んだ済々黌らしさを作ってきたフレーズ」という項目を設けました。むしろ企業のステートメントや事業のショルダーフレーズを整理したりクリエイティブしてきた私としては、こちらの方が専門です。

さて。
企業や組織の創業の理念は、創業者が存命の時や現役のときは本人の情熱が周囲に波及していくし周囲も理解が深いので厳しく守られます。しかし創業者が現場を離れると「言語化されていなかった知的資産や教え」が希薄化します。
大抵の場合その状況になると新たに創業の理念を補完するステートメント(宣言や行動指針)が追加されます。

済々黌も例外ではありません。第2代黌長の佐々先生が東京の政界へ転身されたすぐあと、第3代黌長の木村弦雄先生が「三綱領述義」を生徒に示して三綱領精神の継続的浸透を図られました。そのなかで先導的国民になるための要件として「徳育・體(体)育・知育」という三育を明記されました。この三育は教育実施方針であり三綱領の「磨知識・進文明」の解説のなかに位置付けられています。

さらに第5代黌長の井芹経平先生が1920(大正9)年に三綱領を補完する「八條目」という行動指針を定められました。

井芹経平先生の「八條目」 項目ごとの整理分類

三綱領は「済々黌はこういう人間を作る」という宣言であり、生徒への「目指すべき人物像」を示したものでした。
しかし「どうしたらそれが実現できるのか」については書いてありません。佐々先生は先生として自らの行動を生徒に見せることで、その道を教えておられたのでしょう。
しかしその姿が遠くなると、生徒は「どぎゃんしたらよかと?」(共通語訳どうしたらいいの?)となりますし、教師は「どぎゃん教え方したらよかと?」(共通語訳=どういう教え方したらいいの?)となります。

そこで行動指針が必要になるわけです。
頭で理解すればそのようになる、というほど人は頭が良くありません。ときには行動を変えることで頭や心が変わることもある。むしろその方が多いかもしれない。
そこで八條目を定めることにより、三綱領の理想の人物像へと済々黌生徒を導こうとされたのかもしれません。

実は佐々先生の「三綱領の解説」に行動指針のようなものが書かれてはいたのですがやや難しかったこともあって、井芹先生の八條目によってどう行動すればよいかという指針が明確になりました。
そうして先の「徳育・体育・知育」 「三育併進」に加え、現代の現場でも日用の言葉となっている「質実剛健」「師弟一如」「文武両道」も明確になりました。

「徳育・躰育・知育」について、徳育が全てに先立つ理由は先に書きました。政治行政に携わるスキルだけであれば済々黌設立時にすでにあった官製熊本中学でもよかったのです。
しかし社会を構成する国民には、さらに政治行政のパイオニアとなるべき人物には徳目が備わっていなければならない。だから済々黌の教育では徳育が優先されたということです。

済々黌の教育で特色あるのは次に体育があることです。
実は全国のほとんどの高校で「文武両道」が唱えられています。
しかし済々黌ほどバランス良く文武両道を形にしている学校は、私には他に見えません。
それは今の生徒の皆さん、教師の皆さんの努力の賜物です。そしてそれは佐々先生が140年前に仕込んだ済々黌文化の賜物なのです。

佐々友房「三綱領の解説」より抜粋

佐々先生の「三綱領の解説」では「人の心志剛毅なればその身体をして活発ならしむべく、身体強壮なればその心志を奮起せしむべし」とし、これが(社会の)元気を振るうために必要なことであると書いてあります。また実際に済々黌の教育では当初から体育が重視されていました。
ここで大事なのは文武両道自体が目的であったり、学生生活の目標になったりしているのではないということです。
あくまでも社会のエネルギーの源となり自分が花開くことを目的として、それに備えて文武両道の教育があるということです。それが現代にまで連綿と受け継がれ、済々黌ならではの文化になっているのでしょう。

以上のことをまとめ、下記に済々黌教育を表現する理念・行動指針・現場実践フレーズを整理してみました。

以上が済々黌140周年の現代に考える、私の三綱領の現代的解説の全てです。大義の意味や、さまざまに済々黌を語るフレーズの重なりや位置付けでもやもやしていた方には、スッキリされた方も多いのではないかと思います。
随分と長い文章をお読みいただきありがとうございました。

ここではいま考えている私の三綱領をご披露したわけですが、皆さんはどうでしょう。
人生のステージが変わることで初めてわかる言葉や意味もあります。
そのとき、その環境で、心に響く自分の三綱領をふと考えてみる。
そのような人生は深く、楽しく、新鮮なものになる気がします。
だから心の片隅に三綱領を。
お読みいただいたあなたの人生がより素晴らしいものになりますように。

■済々黌140周年歴史紹介チーム
・文責 済々黌140周年歴史紹介チーム 企画監理
アカウントプランナー 眞藤 隆次 昭和57年卒

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