月刊黌辞苑(序)

140周年記念本サイト公開まで-133

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140周年記念本サイト公開まで-133

あの頃と今の済々黌Column

済々黌卒業生による5本のコラム

140周年に向け書き下ろした、済々黌出身ライターによるコラムです。
それぞれの高校時代と今の済々黌について語り、140年の歴史と現代を結びつけます。

コラム内のイラストレーションも卒業生にお願いをしており、
どこか懐かしい雰囲気を感じられるのではないでしょうか。

  • vol.01

    九州大会11年連続出場のきっかけは意外なところに!?

    済々黌吹奏楽部って、どんなイメージですか。私には憧れの的であり、そこで演奏した日々は夢のようでした。今回140周年記念で吹奏楽部のことを調べてみたら、今まで知らなかった「吹奏楽部秘話」を色々知ることができたんです。私が済々黌吹奏楽部を志望するきっかけとなった演奏も、先輩方の努力とチームワークが結実したものでした。長年指揮をしてくださった黒葛原潔(つづらばら・きよし)さんとの出会いなど、皆さんそれぞれの思い出があるでしょうが、私が見聞きしたこと、体験したことの一部をご紹介します。 合格発表の翌日から入部!初心者が、なぜ!? 〜1978年①〜 済々黌吹奏楽部のOBOGの皆さんなら、合格発表の翌日から中学の制服を着て「入部させてください!」と言いに行った人も多いのではないでしょうか。私もそうでした。現在では中学生の練習は禁止だそうです。もし事故などがあったら誰も責任を取れないから。昭和は、大らかな時代でしたね。 入学前に来るような人は、吹奏楽の経験者ばかり。しかし、私は初心者。楽器も持っていません。 そんな私が済々黌吹奏楽部を目指したきっかけは、1978(昭和53)年夏に行われた吹奏楽コンクール熊本県予選。自由曲『交響詩 フィンランディア』で、済々黌は西部大会(現在の九州大会・以下九州大会と表記)出場を決めたのです!最優秀賞は常連の玉名女子高。熊本市内の高校で九州大会へコマを進めた済々黌に、中学3年の私と友人たちは憧れました。 友人と言っても、私以外は名門吹奏楽部のある京陵中学校(指揮は草野格先生)。私を含め、花園小学校では万谷雄一先生指導のもと、県の器楽合奏コンクールで金賞や最優秀賞を頂くような器楽部に所属していました。私はアコーディオンを担当していました。 ところが中学に進む段になって私だけが他地域に引っ越し、吹奏楽部のない別の中学へ。吹奏楽コンクール熊本県大会のときには、毎年京陵中のみんなの応援に行っていました。 高校受験を意識する3年生の夏、中学と高校の県大会が同じ日に開催され、熊本市民会館(現:市民会館シアーズホーム夢ホール)で「金賞、済々黌高校!」と発表されたのを目当たりに。その場で、京陵中の仲間と「済々黌に行って、また合奏しよう!」と固く誓い合ったのでした。 5月の体育祭と7月のコンクールが終われば、京陵中の仲間と会う機会はありません。遠く離れて過ごすなかで、私は知らなかったのです。あれだけ盛り上がった花園小の仲間がみんな、済々黌受験をやめたことを! 私は「済々黌に入れば、また友達と一緒にいられる!」と信じ、勉強に励みました。三者面談で担任の先生から「偏差値的に済々黌は難しいから第一高校にしたら?」と言われても「先生、第一高校には吹奏楽部がないんです。済々黌を受けさせてください!」と食い下がりました。母も「もし不合格でも先生の責任は問いませんから、受験するだけさせてやってください」。責任不問とわかったとたん、先生は「よし、済々黌に行け! おまえならきっと受かる!」「ありがとうございます‼」 そして私は、“無謀なチャレンジャー”として職員室の有名人となりました。見知らぬ先生がたさえも、私の名札を見て「君が、そうかー。がんばれ!」と応援してくださいました。ある朝登校すると、担任から、こう言われました。「先生には見える。おまえは、『合格』というゴールに向かって歩いているぞ! このまま進め!」「はい!」大人っていい加減ですよね。でも中学生は、先生が太鼓判を押してくださるんだから大丈夫、と受験に挑みました。 そして、みごと合格! ところが小学校で一番仲が良かった友人に電話をすると、お父様から「熊高以外ダメ」と言われ、泣く泣く従ったそうです。別の二人は熊本商科大学付属高校(現在の熊本学園大学付属高校)へ。「えーっ、吹奏楽部がないのに?」と驚きました(のちに、この二人は吹奏楽部を創部)。中学3年の夏に盛り上がった仲間の誰一人、済々黌を受験していないことがわかり、力が抜けました。ですが、物は考えようです。もし私が京陵中吹奏楽部にいたら、「石にかじりついてでも済々黌に入る!」という鉄の意志は持てなかったでしょう。そんな私に熊本高校吹奏楽部に行く彼女が「違う小学校だけど、京陵中から済々黌に行く子がいるから、一緒に入部しに行ったら?」と紹介してくれました。おかげで合格発表の翌日、その子に連れられ、中学の制服のままで初心者ながらも済々黌吹奏楽部の門を叩くことができたのです。私が希望するフルートパートに偶然にも同じ中学の先輩がおられ、教えていただけることになりました。「交響詩フィンランディア」が契機となり、私一人が済々黌にやって来てしまったわけですが、そこはまた新しい出会いにあふれた場所でした。 『フィンランディア』で運命を変えられた人々 〜1978年②〜 1978(昭和53)年の「交響詩フィンランディア」で運命を変えられたのは、私だけではありませんでした。ここでは2022(令和4)年3月まで小学校の校長先生をされ、2020(令和2)年~2021(令和3)年度は熊本県器楽合奏研究会の会長も務められたMK先輩にスポットを当てます。 済々黌吹奏楽部へ入部されたのは、1977(昭和52)年。後に11年連続九州大会出場を果たす黒葛原潔(つづらばら・きよし)さんが、初めて指揮をしてくださった年です。以下、黒葛原さんのことは「ヅラさん」と愛称で表記しますね。自由曲は『ハンガリー狂詩曲 第二番』でしたが、MK先輩は「初心者で、サックスをあまり上手く吹くことができませんでした。しかし黒葛原さんの指揮に吸い込まれるような感覚で、精一杯演奏した」そうです。残念ながら、九州大会へは出場できませんでした。そして翌1978(昭和53)年の自由曲は、『交響詩 フィンランディア』。先輩後輩みんな仲良く、和気あいあいと楽しい雰囲気の中で、全員で必死に練習し、みごと西部大会出場という栄冠を勝ち得ました。それ以来、『フィンランディア』は、MK先輩にとって特別な楽曲となったのです。 2022年恩賜記念大運動会の吹奏楽部 そのMK先輩は、1980(昭和55)年に済々黌を卒業され、熊大を出て教員となられました。1984(昭和59)年の初任は、天草の小学校。教師としての在り方に悩みつつも、4年目には「とにかく今、自分にできることを必死でやろう!」と覚悟を決めることに。そして5年生の子どもたちと共に取り組んだのが、あの『交響詩 フィンランディア』です。アコーディオン主体のリード合奏でしたが、「高校2年生の時に感じた、自分なりの『フィンランディア』を表現してみよう」と、9年前のヅラさんの姿をイメージしながら、指揮をされました。 MK先輩は1987(昭和62)年当時を振り返り、こう語られます。「初めて合奏の指導に取り組む私にとっても、また、それまでクラシック曲に縁のなかった子どもたちにとっても、本気で臨む『フィンランディア』は新鮮であり、かつ困難な挑戦でした」。しかし努力は実を結びます。指揮者と子どもたちが一体となった演奏が評価され、町の代表として郡市の演奏会への出場することができたのです。「子どもたちと喜びを分かち合った感動は、今でも忘れません」。これはMK先輩に限らず、子どもたちを指導された経験のあるかたは、皆さんが抱く感想でしょう。 その後も校内の音楽会やコンクール、老人ホームでの訪問演奏など、「音楽を通じて自分に何ができるのか」と自問自答しながら、長年、合奏指導をして来られました。そんな中でMT少年との出会いがありました。少年はMK先生の指揮を見て、のちに指揮者を目指します。その少年が憧れていたのは、ヅラさんを追いかけていたMK先輩の姿だったのです。少年はMK先輩を通して、ヅラさんを見ていたのでしょう。そして今、大人になったMTさんは指揮者となられています。バンドは、なんと済々黌吹奏楽部の卒業生を中心とした「碧落アンサンブル」。ご縁がつながっていくのを感じずにはいられません。 黒葛原さんの指揮の魅力とは? 〜1979年〜 MK先輩以外にも、済々黌吹奏楽部の指揮もされたYH先輩(55年卒)はじめ、多くのOBOGが、小中高校等各団体で合奏指導に携わっておられます。各地で、ヅラさんのDNAが受け継がれていっているのではないでしょうか。 高校時代、ヅラさんの指揮で演奏するのは、無上の喜びでした。たとえば曲の中でフルートが目立つ部分の演奏をやり終えた時、「フルートグッジョブ!」というように、左手でOKサイン。右手の指揮棒はもう金管の演奏のために先に進んでいるのですが、フルートの皆に向けて、満面の笑み。うんうんと満足げに頷かれる姿を見て、「やったー!」と喜んでいました。合奏時にも妥協するわけではなく、納得いくまで何度もやり直すのですが、叱られたことはありません。ヅラさんの「こういうふうに」という指示に、全力で応えようとしました。OKが出た時の喜びは何物にも代えがたく、中毒性があるような気さえします。ヅラさんは、意識的なのかどうかわかりませんが、生徒の能力を最大限引き出してくださったと思います。 そんなヅラさんの指揮で演奏するのもこれが最後、という日が2022(令和4)年2月27日。創立40周年記念の碧落アンサンブル第30回定期演奏会です。熊本県立劇場で演奏された曲目は、『大序曲1812年』。私の高校時代にも演奏した、大好きな曲です。九州外からわざわざ最後の指揮を受けに来る同級生に「出演しないの?」と聞かれましたが、もう私は音楽から遠ざかっています。定演当日は仕事で聴きに行くこともできませんでしたが、ヅラさんはステージで、こうおっしゃったそうです。「自分がこれまでやって来たことは、単に音楽を教えるということではありません。その人たちが自分と過ごす時間の中で何かを感じ、それをまた次の誰かに伝えて行ってくれれば、嬉しいですね」と。 先輩命令は絶対!? 名門校の部長をうならせた1年生の偉業 〜1976年〜 ではここで、ヅラさんが済々黌吹奏楽部と関わるきっかけになったかもしれない、ちょっと面白いエピソードをご紹介します。 1976(昭和51)年の吹奏楽コンクール熊本県大会において、課題曲『即興曲』、自由曲『組曲《惑星》より 木星』で、済々黌吹奏楽部は初めて銀賞を受賞。今まで銅賞続きだったので、みんな大喜びです。さらに九州大会は、たまたま熊本での開催だったため、「ご当地は1校多く出場可」というラッキーに恵まれました。県で銀賞にも関わらず、九州大会初出場。そこでも銀賞を獲得しました。長年指揮をして来てくださった岩永頌二先生のご指導の賜物です。当時、サックスのMS先輩(以下、M先輩)は、熊本電気鉄道菊池線で済々黌の最寄り駅である黒髪町駅まで通学するとき、九州学院高校のXさん(のちに吹奏楽部長)と、よく同じ電車に乗り合わせていました。済々健児の見本のように豪快なM先輩。面倒見がよくて、後輩からも慕われています。2年生のころ、いつものように部活の後で、1年生のトランペットIHさん(以下Iさん)はM先輩をお見送りするために、黒髪町駅へ。電車には、九州学院のXさんがおられました。 ホームからM先輩に「失礼します!」とおじぎする1年生に向かい、M先輩はドアが閉まる瞬間、「北熊本」と一言。それは「次の北熊本駅まで自転車で行き、ホームで挨拶しろ!」という意味です。Iさんは、急いで自転車で先回り。電車が北熊本駅に着き、ホームでドアがプシューッと開くと、そこにはIさんの姿が。M先輩に向かって再び「失礼します!」。九学のXさんは「えっ、さっきと同じ後輩!?」とびっくり!さらにM先輩が「亀井」と言うと、また亀井駅まで自転車こぎ。北熊本駅から亀井駅までの道はまだましですが、「八景水谷駅」と言われるとダラダラとした登り坂で、自転車では相当キツいものがあります。Iさんは途中で電車と並走することになりますが、まさか遅れるわけにはいきません。ドアが開く前にホームで部長をお待ちするのが、1年生の使命なのです。必死でこぎ続け、無事、八景水谷駅に付いたIさんは、開いたドアからM先輩に向かって、「失礼します!」すると次は「堀川」。八景水谷駅から堀川駅までは、もうシャレにならないほどの上り坂。しかし堀川駅でもおじぎをする1年生の姿に、Xさんは思わず「すげ~‼」と、感嘆の声。九州学院と言えば、当時、熊本市内高校の吹奏楽部での名門校。当時を振り返ったM先輩いわく、「当時の九学は、万年銅賞だった済々黌とは格が違うと俺は感じていたもんね。そのX君の前で、Iはよくやってくれたと思うよ」。 Iさん、すばらしいです。自宅とは逆方向に走り、見事に済々黌の先輩後輩の絆の深さを示してくださいましたね! 「そうね、理不尽なまでの絆をね。その日だけでなく、何回も見送りに来てくれたよ。いきなり『亀井』と指定したり。今思うと、俺って悪人よね~(笑)。でも、その九学のX君が部長になって、ヅラさんを紹介してもらったとたいね。Iが一生懸命がんばってくれたおかげで、X君が『済々黌はすごい!』と思って協力してくれたのかもしれん」。 M先輩、Iさん(私から見れば先輩ですが)、そして九学の部長さん、ありがとうございます。M先輩の人情味あふれるお人柄だからこそ、後輩も付いてきたのだと思います。現代ではあまり見られない光景かもしれませんが、先輩と後輩でちょっとしたいたずらをしかけてみようという、仲の良さを象徴するエピソードですね。 指揮者・黒葛原潔さんの誕生秘話 〜1977年①〜 九州大会で銅賞を受賞し、部員はヤル気になったものの、翌1977(昭和52)年春、音楽の岩永先生が他校へ転勤され、黌内に合奏指導のできる先生は不在。どなたかに指揮をお願いしたくても、全くツテがない状態でした。そこで新3年生となったM部長は、電車通学仲間の九州学院吹奏楽部のX部長に「(九学で指揮をされている)白川先生に、指揮者を紹介してくださるように、頼んでみてくれんね」と依頼されました。すると白川先生は、「熊本交響楽団の黒葛原君が適任じゃない?」と、ヅラさん(当時20代)のご自宅のお電話番号を教えてくださいました。するとM部長は直談判しようと、いきなりご自宅にお電話をかけたそうです。当時を振り返って、M先輩は「社会人になった今となって思うと、ご自宅にお電話するなんて、ご無礼な話よね。でも高校生で、他にどうしようもなかったとたいね」緊張して握る受話器の向こうから聞こえて来たのは奥様の声。「済々黌吹奏楽部の部長で、Mと申します。黒葛原さんに指揮をお願したいのですが……」。すると「あら、私も済々黌なの。私からも言っておくから、明日もう一度かけて」。意外なところでOGの援護射撃を得られそうです。 翌日、改めてお電話すると潔さんご本人が出られ、「一度、楽譜を見せて」という流れに。後日、M先輩はヅラさんの職場である熊本市役所へ楽譜を持参し、正式に依頼。有り難いことに、指揮を引き受けていただけたのです。 ヅラさんは、もともと済々黌と同じくバンカラな校風で知られる福岡県立嘉穂高校のご出身。九州大会の常連でもある嘉穂高吹奏楽部ではホルンを演奏し、マーチングバンドの先頭になった経験もおありです。熊本大学では、熊大フィルハーモニーオーケストラの指揮もされていました。当時を振り返って、ヅラさんは「指揮の依頼があったとき、『今年度、音楽の先生がいらっしゃいません。あと3年くらいで、また音楽の先生が赴任して来られるはずだから、その間お願いします』と。吹奏楽部の指導なら、できるのではないかと思って引き受けたんだけどね」。音楽専科の先生の赴任は、その12年後でした。 指揮者もいないし、楽譜がない!! どうする!? 〜1977年②〜 指揮者が決まらない時期に起きた、当時の済々黌らしいエピソードをひとつ。1977(昭和52)年は、自由曲に『ハンガリー狂詩曲第2番』を選んだのですが、当時、楽譜はレンタルも販売もされていません。他校から貸していただこうにも、県内どこをあたっても見つかりませんでした。当時の部員で知恵を絞りました。九州吹奏楽連盟の記念誌を引っ張り出し、過去の九州大会での演奏曲目一覧をしらみつぶしにチェック。10年ほど前に、大分の中学校と沖縄の高校、そして福岡の企業バンドがやっていたことがわかりました。早速大人のバンドに問い合わせるも、版権がらみであえなく断られます。 そこで諦めるような済々黌吹奏楽部ではありません。困難であればあるほど済々黌魂に火がつき、得意の突撃作戦に出ようと考えます。さすがに沖縄への突撃は断念し、大分の中学校に出向くことを決意。学校の都合で休みになっていた平日に、あの菊電コンビ・M先輩&Iさん(なんだかんだで仲がいい)は、朝一番の大分行きJR豊肥線に乗り、一路、別府市立北部中学校へ。学校へ着いたのはお昼過ぎになっていました。 「アポもなしに非常識だ!」と怒られても仕方のない場面です。ところが吹奏楽部顧問の先生は、「遠いところご苦労さん。待ってました」との意外な反応。そして、ほしくてたまらなかった『ハンガリー狂詩曲第2番』の楽譜を、手渡してくださるではありませんか!  実は、済々黌吹奏楽部の顧問になられたばかりの鳥居勇先生が、M&Iによる突撃計画の情報を耳にされ、「さすがにいきなりはマズいだろう」と先回り。別府北部中吹奏楽部の先生に、電話で頼んでくださっていたのです。運の良いことに、別府北部中の先生は、大分県吹奏楽連盟理事長(のちに九州吹奏楽連盟理事長)で、「高校生たちががんばっているのだから、応えてあげたい」と、すぐに吹奏楽部員を招集。その先生が指導した曲ではなく10年ほど前に演奏した楽譜なので、探すため時間が必要でした。そしてM&I突撃隊が到着する直前の昼休みには楽譜をそろえ、待ちかまえていてくださったのです。しかし2つのパートの楽譜だけがどうしても見つかりません(よりにもよってM&I突撃隊のパート)。そこは悪運の強い済々黌のこと、たまたま沖縄の高校の顧問の先生は沖縄県吹奏楽連盟理事長。別府の先生は、県代表同士で顔見知りだった沖縄の先生にお電話され、なんと「不足分のパート譜を、済々黌高校宛に郵送してやってください」と手配してくださっていたのでした。縁もゆかりもない高校生のために。 (イメージ画像です) そうやって皆さんのご協力のおかげで入手した自由曲『ハンガリー狂詩曲 第2番』と、課題曲『吹奏楽のためのバーレスク』の楽譜を持って、ヅラさんに指揮をお願いに行ったのです。楽譜もなければ指揮者もいない。ないない尽くしから、やっと練習スタート。みんな心を一つに頑張りましたが、吹奏楽コンクール熊本県大会では銅賞。九州大会2年連続出場には至りませんでした。 ヅラさんは高校指揮者としてデビューした当時を振り返り、「みんな上手いし、イケると思ったんだけどねー。『ハンガリー狂詩曲 第2番』は、ちょっとキラキラした曲だった。けど翌年の『フィンランディア』は抒情的で、より済々黌に合っていたと思うね」ヅラさんの指揮者就任直後、当時黌長だった一瀬恭己先生(もと吹奏楽部顧問)は、ふらりと練習場に現れて合奏をお聞きになり、無言で立ち去られることもありました。一瀬黌長は、後でヅラさんに「生徒の心がみんな、君の方を向いているのがわかる」と、おっしゃったそうです。心ここにあらずで、顔だけ先生に向ける時もあります。「生徒の心」を見抜かれるとは、さすが一瀬先生。部員一同、ヅラさんの指揮に魅了されていたことは想像に難くありません。 再び九州大会に進出!そして甲子園出場! 〜1979年〜 翌1978(昭和53)年、済々黌吹奏楽部は課題曲『ジュビラーテ』、自由曲『交響詩 フィンランディア』を引っ提げて、県大会で金賞を受賞。2年ぶりに、九州大会進出を決めたのでした。以降11年間、ヅラさん指揮による怒涛の快進撃は後述のとおりです。 その翌年の1979(昭和54)年に私は入学したのですが、初心者なので、4月の定期演奏会ではまだ演奏できませんでした。新入生では、私と同じく合格発表の翌日に入部したクラリネットの二人だけが出演しました。同年7月、21年ぶりに野球部が県大会で優勝! 甲子園出場を決めたのです。それを知ったのが、吹奏楽コンクールの県大会当日。まさに出場する直前の、熊本市民会館の裏の廊下にいた時。3年の部長が、「野球部に続いて、俺達も県大会で優勝するぞ!」「オーーッ!!!」出演前から、大盛り上がりでした。課題曲『幻想曲 幼い日の想い出』、自由曲『シンフォニックバンドのための《パッサカリア》』で、みごと金賞を受賞。今思うと、私のような初心者がよく出場できたものだと思います。当時は人数が少なかったんですよね。 甲子園への応援は、8月11日の初戦は夜行バス、2回戦はフェリーで行きました。私は、コンクール曲も満足に吹けないのに、野球の応援歌(『ゆけゆけ飛雄馬』とか『ポパイ・ザ・セーラーマン』とか)という新しい楽譜を渡され、泣きながら練習していましたよ。東北高校との初戦で、私たちフルートが指揮の先輩の方を向くと、マウンドが見えないんです。カキーン! ワー!!!!と聞こえても、今、何が行われているのか、全然わかりません。気が付くと、18対5で勝っていました。 今では、試合の前に必ず校歌が流れますが、当時は勝った時のみ。それはもう、甲子園で黌歌を演奏する喜びは格別です。どの高校も1番だけ歌うのに、「済々黌黌歌は4番で1セット!」という応援団の一言で、4番まで演舞。当然、指揮者は棒振りを続け、演奏も4番まで。観客もOBが多いため、歌い続けます。途中、場内アナウンスで「済々黌高校の皆さんは、すみやかに退場してください」と注意されました。それでも歌をやめないので、2回目の退場要求アナウンス。恥ずかしい……(泣)。 一旦バスで帰熊し、わずか3日後の8月14日が2回戦。城西高校に9対4で負けました。甲子園の炎天下で演奏したせいか、「楽器の音が荒れた」「クラシックの音ではなくなった」と言われる先輩もいらっしゃったくらいです。3回戦まで進んでいたら、九州大会まで調整できたのでしょうか。がんばってコンクール曲を練習しましたが、8月末に鹿児島県で開催された九州大会では、銀賞でした。でも甲子園のため多額の寄付をしてくださったおかげで、高価な楽器を購入することができました。 実は吹奏楽部の創部も、甲子園がきっかけなのです。1958(昭和33)年春、野球部が選抜高校野球大会で初の甲子園出場が決まった後、慌てて創部したという話を聞きました。「音楽好きが集まって……」ではなく、甲子園という大舞台で「野球部のために何かせんといかん!」という済々黌体質から生まれたと言えそうです。その大会で済々黌野球部は、王貞治選手含む名門・早稲田実業高校を破って優勝。急ごしらえの吹奏楽部ですが、応援に一役かったのではないでしょうか。 自由曲が大どんでん返し! 済々黌サウンドとは!? 〜1980年①〜 1980(昭和55)年、課題曲は『吹奏楽のための《花祭り》』でした。そして自由曲は、定期演奏会の演目の中から多数決で、私も投票した『交響的舞曲第3番 フィエスタ』に決定。ところが、YK先輩(56年卒)が、「『交響的舞曲』じゃ全国大会に行けない。『カディッシュ』が今年のメンバーに合う」と、署名運動を始められたのです。  自由曲が決まった翌日、体育館の前で練習していると、YK先輩(以下、Y先輩)が近くに来られ「よかったら、署名してくれんかなぁ」と言われました。隣にいた同級生は、「はい」と即答して署名(後にY先輩の嫁になります)。私は、「『カディッシュ』なんてロングトーン地獄。死にます」と、お断りしました。でも部員一人一人を回られるY先輩の姿に大部分の人が署名していたので、不安になりました。何十人分の署名がTR部長(56年卒)に提出されると部員全員、音楽室に緊急招集。TR先輩は合格発表の翌日、違う中学の私にまで親身になってお世話をしてくださるような、とても穏やかで優しい先輩です。そんな部長が全員に向かって、怒りを抑えておっしゃいました。「みんなの署名を見たよ。俺も『カディッシュ』に投票したけど、多数決で『交響的舞曲』に決まったから、『よし、この曲でがんばろう!』と思った。それがどうして、今は『カディッシュ』の方が多いんだ? 最初の投票で、ちゃんと考えて選ぶべきじゃないか」私は「そのとおりです。このまま『交響的舞曲』で行きましょう!」と心の中で叫んだのですが、部長は「みんながそれでいいなら、『カディッシュ』でいく」と。もう涙ナイアガラ……(´;ω;`)ウゥゥ当時のクラリネットの1年生は、「事情もわからず自由曲投票に参加したのですが、3年の先輩から『周りが何と言っても、ヅラさんがやりたいっていう方に投票して』と言われ、『交響的舞曲』に投票しました(笑)」。別の後輩によると「ヅラさんが『交響的舞曲はノリがいいねぇ』とおっしゃっていた」そうです。それは単なる感想なのでは……?もしかしたら3年の先輩も、そのような言葉を耳にされて1年生にお伝えになったのかもしれません。ちょっとした発言でも、指導者の言葉は生徒に大きな影響を与えます。 ヅラさんは学校の教員ではなく熊本市職員という立場で、合奏指導は無償ボランティアです。しかし中学から吹奏楽部をやっていた後輩にとっては、指導者は絶対的存在。その1年生は「指揮者の先生の意見を生徒がひっくり返すなんて、かなりの衝撃でした。すごいところに入部してしまったと思いました」と、今でも振り返ります。 今年ヅラさんにインタビューしたら、「選曲は生徒に任せて、自分が口出ししたことはない」とのことでした(あれれ?)。最近知りましたが、署名運動をされたY先輩の考えは、「トランペット、ティンパニ、アルトサックス以外は初心者が多い。昨年全国大会に行った福岡のN高校は、キラキラした木管の音色と金管の重厚な低音が売り。F高校は、どこにも真似できないパワーあるサウンド。この2校に対抗するには、メカニックな曲ではなく、じっくり音とハーモニーを磨き、うちにしか出せないサウンドで勝負するしかない」ということでした。いぶし銀のような曲の『カディッシュ』だからこそ、創部以来初の県大会最優秀賞の栄冠に輝いたのでしょう。ヅラさんのおっしゃるとおり、「キラキラした曲」は、済々黌サウンドとあまり合わないのかもしれません。 『カディッシュ』の最後は、トランペットの最高音のC(ハイツェー)が決め手となります。曲中も散々ロングトーンで演奏し、最後の最後で、最高音のロングトーンは、トランペット奏者にとってかなり苦しい曲です。Y先輩の同級生は「コンクールでいろんな学校の演奏を聴いて、うちのラッパはとっても上手かったというのがよくわかったよ。でも、そのY君が苦しんでいるから、よっぽど大変な曲なんだね」とおっしゃったほどです。 九州大会のリハーサル後、Y先輩の同級生の女子六人全員から、「Y君の最後のハイCが美しく響くように」と、オレンジジュースの『ハイC』をプレゼントされていました。「Y君が本番のステージで椅子の下に、ジュースの空き缶を置いて演奏していたのは、今でも忘れられません」と、女子の先輩がおっしゃっています。覚えていますよ。ヅラさんが、「Y、なぜジュースの缶が?」とお尋ねになると、Y先輩は「ハイC(ハイシー)飲んで、ハイC(ハイツェー)出す! 3年生みんなの願かけです」と言っておられました。金賞は、きっとそのご利益ですね。 九州大会で初の金賞を受賞しましたが、全国へはあと一歩届かず。しかし、この大会後、吹奏楽専門誌『バンドジャーナル』に「今大会唯一の素晴らしい金管のサウンドでした」と記載されました。音は個々。音楽は集団。仲間を信頼しているからこそ、本音を言い合い、自分達にしか創り出せない音をみんなで探究した結果、頂けた賞でした。 夏休み明け、高校のランチタイムに、放送部が金賞受賞記念として2曲共放送してくれました。『花祭り』はピーヒャラした明るい曲なのに、『カディッシュ』は、重苦しいですよね。クラスメイトに「何この、暗~い曲」と言われ、「お葬式の曲だからね」と答えると、「お弁当がまずくなる」と。それだけ音楽性の高い曲なんでしょうね。 ちなみにY先輩は、のちに小学校で長年吹奏楽や合唱の指導をされ、最優秀賞等数多くの賞を受賞されています。きっと子どもたちの特性を活かした選曲をされて、練習したくなるような導きをされていらっしゃるのでしょう。 吹奏楽部を脱退! ガンダムつながりで漫画研究会へ 〜1980年②〜 『カディッシュ』で悪戦苦闘した1980(昭和55)年の4月には、わがフルートパートに経験者三人が入部して来ました。うち一人はのちに芸大を出て、プロ演奏家になるほどの腕前で、他の子も私とは比較にならないほどうまい!でもコンクール出場には人数制限があり、この年度のフルートは四人(3年生一人、2年生三人)まで。私より上手な後輩が、私がいるせいで、出場できなくなってしまうのです。 私たち出場者が音楽室でコンクールの合奏練習をしている時、中学時代に九州大会出場経験もある1年生たちは教室で、個人練習。当時は、「上手な1年生が合奏に出られない。教室で個人練習させてごめんね」という気持ちでいっぱいの私。同じ2年のYEさん(以下、Eちゃん)は、「先輩なんだから、堂々とコンクールに出ていいよ」と言ってくれます。でも後輩三人が私を先輩として立ててくれることは、実力の無さを自覚している私にとって、かえって居づらくてたまりませんでした。そして2年の秋に、とうとう吹奏楽部を退部し漫画研究会へ転部することに。 きっかけは、同じクラスに漫画研究会の人が三人いたことです。実は私、昔から漫画やアニメも大好きなのです。この前年1979(昭和54)年4月、アニメ『機動戦士ガンダム』、いわゆるファーストガンダムが放映開始。当初、熊本県では放映されなかったのをご存じですか? そもそも熊本ではテレビ局が少なく、放映されない番組もあります。だから私は、自宅に背の高いアンテナを立てて福岡のテレビも視聴。福岡では『無敵鋼人ダイターン3』の後番組でガンダムが始まったのに、1週間遅れの熊本放送では、違う番組が紹介されたときのショックと言ったら! 「熊本ではアニメは市民権を得ていないのか? 宇宙戦艦ヤマトの時に受け入れられたと思っていたのに……」 しかし全国のアニメファンの間では「今までの一話完結ロボットアニメとは違う!」と話題になり、アニメ雑誌でも大きく取り上げられていました。どうしてもテレビでガンダムを見たい! そんな女子高生たちが熊本のテレビ局での放映を求めて、署名運動を開始します。発起人は熊本市立高校(現:熊本市立必由館高校)2年生の女子。各高校の漫画研究会やアニメ研究会に働きかけました。そんな中、熊本商科大学付属高校(現:熊本学園大学付属高校)の1年女子が、同じ中学出身のイラスト好き女子に「済々黌の漫研の人を紹介して」と打診。私と同じ美術クラスだった彼女は「うちの漫研は描くのが好きなだけ。それより香織の方がアニメに詳しいし、行動力があるから!」と、つないでくれたのです。 当時1年生だった私は、我が黌代表として署名を集めました。漫研の先輩方は、あまりアニメに興味はないご様子でしたが、署名運動にご協力いただきました。吹奏楽部員はじめ、当時ガンダムのガの字も知らずに署名してくれた皆さん、ありがとうございます。おかげ様で、RKK熊本放送さんに署名の束を持ち込み、無事、放映にこぎつけました。熊本もガンダムブームにも乗り遅れずに済みましたね。その署名運動を通して仲良くなった漫研の同級生三人と、2年生で同じクラスになりました。彼女らはギャグ漫画あり、ストーリー漫画あり、本当に面白い漫画を描くんです。冊子を販売して儲けようというより、「友達のすばらしさを知ってほしい。吹奏楽部では居場所がないけど、漫研なら私でも役に立てるんじゃないか」と感じ、吹奏楽部を辞めたのです。ガンダムで人生が変わったかもしれません。印刷もコピーではなく、学校の輪転機を借りて節約しました。漫研の冊子は、昨年の販売実績が10部。しかし私は300円の冊子を100部、完売しました。そのための努力もしたんです。文化祭当日、よく声が通る子を廊下に立たせ、「漫研の漫画、読んでね~!」と声を響き渡らせました。ストーリー漫画が得意な子をガイド役として、室内に配置。そして他県から転校して来たばかりの美少女を、「どこの部にも入ってないなら、休むとこないでしょ。漫研においでよ。同じクラスの女子もいるし」と誘い、教室入口の目立つ位置に彼女の椅子を置きました。看板娘のおかげで、男子が入って来る来る!押し売りせずとも、転入生の可愛い子ちゃんが「良かったら……」と上目使いに見るだけで、売れる売れる!活動費を稼ぐことができました。 文化祭では、漫研の教室を友達に任せ、体育館のステージに吹奏楽部の演奏を聴きに行きました。私がいたら、あんなに美しいメロディにならなかっただろうな、と思いながら。 私は大学卒業後、東京の出版社および熊本の出版社に入社するのですが、高校時代から本を作って売るのが得意だったんだと今更ながらに思います。 やっぱり合奏が好き! まさかのフィンガリング地獄 〜1981年〜 赤ちゃんだったヅラさんの次女さん(のちに済々黌吹奏楽部へ入部)は、ごくまれにパパの練習に同行。後輩たちが、フルートの曲であやしていました。 私は退部したものの、放課後に練習している音を聞くと、演奏したくてたまりません。そんな私は、大谷楽器でフルートを習い始めました。驚くことに、そこでは私は上手いほうなんです。初心者の私をここまで育ててくださった先輩には、感謝しかありません。途中退部して心苦しいです。しかし、やっぱり合奏がしたくなりました。フルートだけではなく、いろんな音でハーモニーを奏でたい。花園小の仲間たちが入りたくても入れなかった済々黌吹奏楽部。そこに戻るチャンスがあるのも、あと1年間だけ。そう思うと、同級生の部長に頭を下げて、再度入部したい旨を伝えました。彼は快く受け入れてくれました。フルートのパート長Eちゃんからは、「コンクールが終わったら辞めて、また3年でコンクールだけ出るって虫が良すぎる」と言われました。出なくてもいいのです。むしろ、出たくないのです。何を言われても、11月のオープニングコンサートで引退するまでの数か月、ヅラさんの指揮で演奏する済々黌吹奏楽部員でいたかったのです。  1981(昭和56)年は、課題曲『東北地方の民謡によるコラージュ』。自由曲『パンチネルロ』は、とにかく楽譜がアリの巣みたいい音符だらけで、指を早く動かすのが私には難しかったですね~。その曲をみんな上手く演奏するものだから、ヅラさんがノリにノッて、どんどんテンポが速くなるのです。昨年のロングトーン地獄のほうがましと思える、フィンガリング(運指)地獄。私が音を出すよりも、むしろ演奏しているフリをした方が、マイナスが少なくて済むかもしれません。そう言うと、隣のEちゃんは「ドレミファソラシドレのところ、音符一つずつ飛ばしてドミソシレでいいよ」と、私の実力に合ったアドバイス。そうして県大会では金賞、長崎県佐世保市での九州大会では銅賞を頂きました。3年間の九州大会で、金銀銅コンプリートです。  高校3年間の吹奏楽部生活は、山あり谷ありでしたが、忘れられないくらい楽しいものでした。隣でピッコロを吹いていたEちゃんと、合奏の時も笑ってばかり。指揮者から「次は『能面』」と言われると、Eちゃんは楽譜を探しながら、「能面のお面」。私が「能面の譜面でしょ」と笑うと、「能面、能面って繰り返しただけ!」また別の合奏時、Eちゃんのセーラー服の白リボンがゆがんでいたので、フルートで指して「ここがゆがんでいるよ」と教えてあげると、「何よー」とフルートで突かれました。「リボンが曲がっているって」と言うと、「心がゆがんでいると聞こえた」って。他愛もないことなのですが、箸が転んでもおかしい年ごろとは、よく言いますね。先輩後輩とも、一生残る思い出を作ることができました。 その中でも、特にヅラさんに指揮をしていただいたことが、一番、心に残っています。そういう部員は、多いのではないでしょうか。自分がヅラさんの年齢を経験して初めて気づいたのですが、アラサーって、仕事にも慣れてきて、ものすごく忙しい時期ではないですか。それなのにヅラさんは仕事帰りにしょっちゅう指揮に来てくださいました。夏の合宿は土日含め3泊4日で、有給休暇を申請すると係長は渋い顔。しかし当時の職場は学校教育課で、歴代の課長(もと教員)は「高校生のために行かせてやるたい」と、ご理解くださったそうです。お疲れのはずなのに、「『あ、今日は済々黌に行く日だ』と思うと、恋人に会うようなウキウキした気分になっていたよ」とおっしゃってくださるヅラさんに、心からの感謝と尊敬の念を禁じ得ません。前にも少し書きましたが、ヅラさんと済々黌吹奏楽部をつないだ立役者のM先輩(53年卒)は、大学時代の1981(昭和56)年、卒業生による「済々黌OB 碧落アンサンブル」を創立されました(現在では他校出身の方も演奏しておられます)。私たち現役生が練習を終えて帰宅しようとする夕方から、済々黌の体育館で合奏しておられましたね。創立にも大変なご苦労がありましたが、それはまた別の機会に……。 ラッパの音が良くなる!? 恐怖のラー油99杯事件! 〜1982年①〜 1982(昭和57)年、トランペットの2年生TH君(以下、T君)が、ある事件を起こします。済々黌の男子生徒行きつけの店『桃花園』で、名物の天津飯にかけたラー油が、なんと49杯‼ どれだけ辛いか、想像もつきません。 きっかけは、卒業したばかりのトランペットKH君が、母黌に立ち寄ったこと。いつも同じパートの後輩にごちそうする彼ですが、その日は手持ちが少なく、「天津飯に大量のラー油をかけたラグビー部の記録を抜いたら、おごってやる」と条件付きに。T君は可愛い顔して、ラー油を49杯かけました。KH君によると、「真っ赤になった天津飯を見た桃花園のおじちゃんから、『そぎゃんラー油かけたら、肝臓ば悪くするよ』と、とても苦々しい顔で温かいお言葉を頂いた」そうです。ラー油49杯に驚いたKH君は、トランペットの1学年上、あのY先輩(56年卒)の通う予備校へ報告に行きました。「先パーーーイ、たいぎゃスゲーことが起こりました! Tがラグビー部の記録ば、破ったとですよ!!」。後輩思いのY先輩は、いてもたってもいられません。3学年下のT君の偉業を讃えるべく、母黌へ向かいました。「T、すげーねー。俺もラー油はだいぶかけるバッテン、そら敵わん。すげー、やっぱTはすげーばい!」Y先輩によると、「Tは、まんざらでもなさそうだった。ラー油49杯って、凄まじいこと。当時は、『ラー油を大量にかけると、唇の血行が良くなって、ラッパの調子が上がる』とか言っていたような……」。さんざん褒め讃えたY先輩は、しみじみとつぶやきます。「でも俺、(歴史的瞬間を)見とらんとたいねぇ。俺も見たかったなぁ……」T君「おごってくれますか?」Y先輩は、俺がおごらなかったことあったっけと思いながらも、「バッ!マジや! なら、行こうぜ!」と、桃花園へ出陣。天津飯が出された時に、Y先輩は「せっかくだけん、自分の記録を破ってみたら?」。4学年下のT君は素直にラー油50杯をかけ、一昨日より赤さ・辛さがパワーアップした天津飯に。この日の桃花園のご主人は、じっと下を向き、一昨日とは違って一切無言。この生徒たちに優しい言葉は無駄だと思われたのでしょう。T君は、この日もそれを完食。見事、桃花園新記録達成! 1日空いたとはいえ、3日間でラー油合計99杯ですよ!(良い子の皆さんは絶対マネしないでください) OBの先輩のノリに応え、見返す後輩のノリ。おごる先輩に、感謝してごちそうになる後輩。済々黌吹奏楽部の、学年を越えたつながりを感じます。T君いわく「いまだに『上司にゃ弱いが胃は強い』を地でいっております」。そしてラー油99杯事件には、後日談もあります。「59年卒のT先輩が99杯」という伝説だけを聞いたトランペットのKH君(62年卒)が、果敢にも記録を破ろうと挑戦したのです! 「ラー油王に、俺はなる!」とでも思ったのでしょうか。結果はなんと、90杯!KH君いわく、「T先輩の記録が2日がかりだと知ったのは、実は5~6年前でした」。3学年下、つまり入れ替わりなので、情報がうまく伝わらなかったのですね。一度にラー油99杯って……肝臓どころか、大変なことになりそう。「いえ、身体はどうにもなかったです」とKH君はさらっと言いますが、ラッパ族は超人ですか? 沖縄での西部大会。台風で、飛行機が飛ばない!? 〜1982年②〜 1982(昭和57)年3月、私は卒業し、吹奏楽部の同級生六人で壺渓塾へ。先輩もいらっしゃったので、私は七人おそろいの座布団を縫いました。その年の課題曲は『吹奏楽のためのカプリチオ』、自由曲は『コラールとアレルヤ』でしたが、県大会が開催された7月23日は、のちに「長崎大水害」と呼ばれる歴史的な暴風雨の日。天草五橋が通行止めとなり、最大のライバル天草高校は会場に来ることすらかなわず(悪運が強い済々黌?)。表彰式も中止され、全員強制帰宅。翌朝、部長から「県代表になった」と電話連絡。当時の3年生は「私が『んで、最優秀はどなた!?』と聞くと、部長が『うち』って」。1年の時に続いて2度目の最優秀賞なのに、発表の瞬間、「キャーッ」と全員で喜ぶ一体感を味わえない年でした。 九州大会の開催地は、復帰10周年を迎える沖縄です。福岡の大学生だったEちゃんは帰省し、熊本空港から現役生と一緒に乗り込んで行きました。私も空港でキャンセル待ちしたのですが、残念ながら満席。デッキでお見送りしました。那覇市での大会では、銅賞を受賞。その帰り、運悪く台風が沖縄に上陸し、飛行機が飛ぶのか?という状態に。自然災害に翻弄されましたが、無事に帰熊できました。 とにかく県外に旅行したい。じゃ総文に出ようぜ! 〜1983年〜 その翌年の1983(昭和58)年、課題曲は『カドリーユ』、自由曲『アンティフォナーレ』。県予選では金賞で県代表に。特に『アンティフォナーレ』は、OBOGから「魂が震えた!」「ひったまがった!」と評されるほどの名演奏で、九州大会で金賞受賞。1980(昭和55)年以来、3年ぶりの快挙です。しかしなにしろ開催地は、地元熊本。栄誉はあれども、何かイベント性が足りません。そこは済々黌、仕込みはOKです。「長崎、沖縄と、毎年旅行して来たのに、最後の年が熊本か。どこか県外に行きた~い!」と、ラー油99杯のT君ほか当時の2年生が、全国高等学校総合文化祭(総文)にエントリーしていたのです。総文の県予選は、1983(昭和58)年2月。あとで済々黌の立田山マラソン大会と同じ日だと気づいても、「いや、吹奏楽部として総文が大事!」と言い訳し、当然のようにマラソンを休ませてもらって県予選出場。結果、熊本県代表に選ばれ、8月には山口県防府市へ。初の本州、いいですね。窮すれば通ず。 さらに4年後の1987(昭和62)年も、県予選の開催地が熊本だったため、総文に弦楽部とジョイント出場のエントリー。建設中の瀬戸大橋の下をフェリーでくぐり、県代表として愛知県名古屋市へ向かったそうです。本州旅行に行けるかどうかが決まる総文の県予選当日、誰も知らないところで事件が起きていました。『シンフォニアノビリッシマ』でトランペットの短いソロ(独奏)を担当する2年生AK君(63年卒・以下A君)が、交通事故に遭ったのです。自転車で済々黌から子飼橋を渡り県立劇場に向かう途中、スーパーマーケットの前を通っていたら、右折して来た車と衝突。叩き落とされて、頭頂部から地面に! A君は「逆さに脳天杭打ち、ソフトケースに入っていたトランペットのスライドが動かなくなったんです。間に合わないのを覚悟の上で、かわせ楽器さんに修理をお願いしました」って。いやいやいや、車にはねられて、身体は大丈夫だったの!?ソリストA君が、楽器が壊れるという切羽詰まった状況で思い出したのが、3年生KH君(62年卒)のトランペットです。1月頃のできごとですが、当時既に大学が決まったKH君は、「卒業まで練習しよう」と部室に楽器を置いていました。総文には出場しない先輩の楽器を取りに行ってもらうよう同級生に頼んだA君は、覚悟を決めてステージへ。さあ本番、というその時、かわせ楽器さんが大至急修理したトランペットを届けてくださいました。ステージにいるA君へ。「ありがたい思い出です」とA君。控室や舞台ソデではなくステージで渡すって、ギリギリ過ぎるでしょ!「あわてましたね。何を吹いたか覚えていないです(笑)」。えっ、覚えていないのは頭を打ったからじゃないの? 脳の精密検査とか受けた?「結局病院には行かなかったような……(^_^;)。冬だったので、楽器が冷たかったのは覚えています」て、記憶すべきは、そこじゃないですよ。自分の身体より、演奏の心配ばかり。吹奏楽部あるあるですが、健康が一番大事ですよ。こういう強者エピソードが何代も語り継がれているのが、ラッパ族の縦のつながりのすごいところですね。 翌1988(昭和63)年は、課題曲『交響的舞曲』、自由曲『組曲第4番《絵のような風景》 より III. IV.』で、県代表に。TK君によると、「九州大会が福岡で、しかも出番が遅かったため、学校から『日帰りできるよね』と言われていました。しかし自分たちで高速バスとホテルを予約して勝手に宿泊。あとで黌長室で怒られたのを覚えています。当時は、この程度はよかろうという空気感でした。さすがに顧問の先生には事前にお伝えしました。その場で怒られましたが、先生もまんざらでもなく、キャンセルしなくて大丈夫でした(笑)」。何がなんでも県外に旅行したいんでしょ。わかる、わかるよ。私も身に覚えがあります。お祭り体質は済々黌の伝統だものね。 吹奏楽部が結ぶ不思議なご縁 〜1983年〜 私が済々黌に入ろうと無謀な挑戦をしたのも、小学校卒業時に引っ越したことがきっかけです。人生は、後で振り返ると、「あの時の、アレがなければ……」ということも多いですよね。吹奏楽部つながりのカップルも多いと思いますが、そんな中でも、びっくりするようなご縁を紹介します。 私の同級生のAHさん(57年卒・以下Hちゃん)とTN君(58年卒)が結婚したのですが、高校時代の二人は、お互いの存在すら全く知らなかったのです。私が合格発表の翌日、京陵中出身の子と一緒に吹奏楽部に行くと、別の中学から来たクラリネットのHちゃんと出会いました。彼女も済々黌吹奏楽部を熱望して入学したのですが、2年生になる前に、お父様の転勤で北九州市へ。在校生として3月の卒業式では『威風堂々』を一緒に演奏して先輩を送り出しましたが、4月の入学式の黌歌は合奏できません。桜吹雪の中で泣きました。「済々黌吹奏楽部が大好きなのに。転校したくない」と。夫となるTN君が入学して来たのは、その翌月の4月。すれ違いなのです。 その後、私は関東の大学に進学し、体育会水泳部に入りました。私は小学3年から水泳部に所属していましたが、腕の関節が痛くなったため、6年生で器楽部に転向したのです。大学1年の夏休み、水泳の試合が兵庫県神戸市で開催。他の水泳部員が関東に帰るのを見送り、兵庫県の親戚宅に宿泊しました。そこから熊本へ帰る途中で、「福岡の大学に通う同級生のEちゃん宅に泊めてもらおうかな。同じアパートに中学の友達もいるし」と計画を立てました。 Eちゃんの家の最寄り駅に着くと、待っていてくれた彼女は「アパートの友達に『香織が来る』って言ったら、『五人で焼肉パーティしよう』って。うちはこっちなんだけど、野菜とか買わないといけないから、反対側のスーパーに寄って行こう」と。そのスーパーマーケットの方を向いたら、なんとワンちゃん連れのHちゃんが歩いて来るではありませんか! 三人でびっくりしました。4年ぶり?Hちゃんは北九州市に引っ越したのですが、お父様が福岡市に転勤され、ご実家はこの近くです。遠くの大学に通っていたHちゃんは、たまたま帰省中。タイミングよく同級生三人が集まり、連絡先を交換しました。 1991(平成3)年の碧落アンサンブル定期演奏会では、同級生のOM君が指揮をすることに。高校教員である彼は、吹奏楽部員に対してカリスマ的な指導力を誇っている、という噂でした。東京で働く私は「同級生の指揮で演奏するなんて、一生に二度とない」と思い、帰省して定期演奏会の練習に参加しました。その時、Hちゃんに「私が定演に出るのも最後だから来てね」とハガキを書いたのです。しかし彼女は大学卒業時に引っ越し、転送されたハガキを受け取ったのは、定演の後。その時は再会できませんでした。私は東京に住んでいるし、その定演を最後の音楽活動にするつもりでした。しかし家族が入院し、1992(平成4)年には熊本に戻ることに。その年の定演にも出ることになり、Hちゃんに連絡を取ると福岡から聴きに来てくれるそうです。私以外の人は、Hちゃんと12年ぶりの再会で、「定演の後でクラリネットが減るから、コンクールを手伝って」という話になりました。卒業生ではないのですが、その頃は同級生がたくさんいて、特例を認めてもらいました(現在の碧落アンサンブルには、他高出身者も多いそうです)。当時、1学年下のTN君は福岡で働き、定演の練習のために高速道路を運転して帰熊していたので、先輩が「T、おまえ、どうせ車で毎週来ているんだから、Hちゃんを乗せて来て」と頼んでくださいました。 二人はそれから毎週のドライブ。意気投合し、ついに結婚に発展したというわけです。結婚式の招待状が届いた時、この二人の名前が並んでいるところを見たことがない私は、椅子から転げ落ちるくらい驚きました。まるっきり想定外でした。私が大学で水泳部に入らなかったら? 兵庫の親戚に1週間泊まらなかったら? 福岡でスーパーに行かなかったら? もっと言うと、私が花園小で水泳部から器楽部に変えなかったら? いや、そもそも小学校のプールに、1972年ミュンヘンオリンピックでバタフライ金メダルを取ったばかりの青木まゆみ選手(熊本県山鹿市出身)が来てくださらなかったら、水泳部に入っていないのです。 “もしも……”は尽きませんが、きっとご縁があったのでしょうね。 人生を変える出会いがある済々黌吹奏楽部 さて今回は、私の在籍した年度を中心に、ヅラさんが指揮をしてくださった時代を紹介しました。1978(昭和53)年に指揮を依頼された当初は「音楽の先生が赴任して来られるまで3年くらい」の予定でしたが、次に音大卒の音楽専科の先生が赴任して来られるのは、1989(平成元)年4月。昭和の終わりに干支がひと回りするほど長期にわたって、済々黌吹奏楽部は、ヅラさんの指揮を受ける幸運を得たのです。 ヅラさんは、こう語ります。「済々黌は公立の進学校。楽器を買う予算もないし、大学受験のための勉強もしないといけないよね。しかも初心者も多い。技術力が高い集団なら美しいハーモニーを目指すこともできるが、それよりも済々黌は音楽性を目指しました。九州大会の講評で『音楽性豊かな響きの演奏でした』とよく言われたけど、手ごたえを感じましたね」。 私の高校時代、顧問は鳥居先生でした。ヅラさんも「鳥居先生は黙って、きめ細かい気配りをしてくださるので助かりました」と感謝しておられます。先に書いた別府の中学へのお電話からもわかるとおり、生徒の気付かないところで様々なお世話をしてくださっていたのでしょう。初心者の私にフルートを教えてくださったMJ先輩(56年卒)も、鳥居先生の隠れた一面を教えてくださいました。1980(昭和55)年の課題曲『吹奏楽のための《花祭り》』は、フルートの高音のソロで始まります。この印象的なハイCのために、鳥居先生はご自身所有の総銀製フルートをMJ先輩にお貸しくださったそうです。「もう響きが、全然違う。総銀の楽器を生徒に貸してくださるなんて、有り難いことです」。寡黙で縁の下の力持ちである、物理の先生。そんな鳥居先生が合宿で独唱された『ひょっこりひょうたん島』には、「意外にお茶目さん?」と度肝を抜かれました。 現在の済々黌吹奏楽部があるのも、創り上げてくださった諸先輩や先生がたのおかげです。当初、様々なご苦労があったことと思います。その先輩がたの努力が実を結び、伝統が受け継がれて、現在の済々黌吹奏楽部の基盤となっているのではないでしょうか。人生を変える出会いがあるかもしれない済々黌吹奏楽部。卒業後もご縁は続いていきます。1992(平成4)年12月~1993(平成5)年1月にかけて、熊本交響楽団の中国演奏旅行に私は事務局として同行させていただきました。熊響理事であるヅラさんと共同作業をして、「中村さんは高校時代おとなしい女の子という印象だったけど、こんなに仕事のできる女性に成長しているとは!」と言われました。おとなしいというより、印象に残らなかったと思います。高校時代は、下手だとバレないように存在感を消していましたから。大人になって、初めてヅラさんのお役に立てて嬉しかったです。 数年前は、東京大同窓会での黌歌生演奏に参加させていただきました。年配の先輩がたはキナセン帽子をかぶり、肩を組んで嬉しそうに黌歌斉唱。音程を気にする吹奏楽部OBOGをよそに、「まさか吹奏楽部の生演奏で黌歌が歌える日が来るとは思わなかった。ありがとう!」と、先輩がたに喜んでいただくことができました。たくさんの卒業生と在校生でつながる、済々黌吹奏楽部の輪。今後の発展が楽しみです。 ※エピソードを教えてくださった皆さんのご協力に感謝します。ヤンチャな内容は、どうしても公表できず、私の胸のうちに秘めておきます。大変申し訳ございません。 黒葛原潔さん指揮による西部大会・九州大会出場の軌跡 ※[課]は課題曲、[自]は自由曲1978(昭和53)年、[課]ジュビラーテ、[自]交響詩《フィンランディア》、県:金賞、西部(福岡県北九州市):銀賞1979(昭和54)年、[課] 幻想曲《幼い日の想い出》、[自] シンフォニックバンドのための《パッサカリア》、県:金賞、西部(鹿児島市):銀賞1980(昭和55)年、[課] 吹奏楽のための《花祭り》、[自] カディッシュ、県:最優秀賞、西部(宮崎県都城市):金賞1981(昭和56)年、[課] 東北地方の民謡によるコラージュ、[自]、パンチネルロ、県:金賞、西部(長崎県佐世保市):銅賞1982(昭和57)年、[課] 吹奏楽のためのカプリチオ、[自] コラールとアレルヤ、県:最優秀賞、九州(沖縄県那覇市):銅賞1983(昭和58)年、[課] カドリーユ、[自] アンティフォナーレ、県:金賞、九州(熊本市):金賞1984(昭和59)年、[課] 吹奏楽のための土俗的舞曲、[自] エスタンピー、県:金賞、九州(鹿児島市):銅賞1985(昭和60)年、[課] ポップ ステップ マーチ、[自] バレエ音楽《四季》 より 秋、県:金賞、九州(福岡市):銀賞1986(昭和61)年、[課] 吹奏楽のための「変容」、[自] 序曲《春の猟犬》、県:金賞、九州(福岡市):銀賞1987(昭和62)年、[課] 風紋、[自] バレエ音楽《コッペリア》、県:金賞、九州(熊本市):銀賞1988(昭和63)年、[課] 交響的舞曲、[自] 組曲第4番《絵のような風景》 より III. IV. (マスネ(ミレ)) 県:金賞、九州(福岡市):銅賞

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    Writer中村 香織昭和57年卒

    Illustrator伊藤(旧姓宮野)雅美平成8年卒

    Date2022.9.20

  • vol.02

    母黌が、4年制高校だった頃の話

    済々黌への志望動機 僕が、済々黌への進学希望をはっきり意識したのは確か中学3年生の夏ぐらい。40年前の事です。当時、僕のクラスでは担任の先生の趣味(指導)で学級新聞を作っていて、その企画の一環で熊本の高校特集号を組んだ事がありました。クラスメイトの各々が興味のある高校や兄姉が通う高校の取材を担当するという感じだったと思います。 そもそも済々黌は、言わずもがなですが熊本の中学生にとって、とてもまばゆい存在。刷り上がった特集号の中から、自分が担当した高校をそっちのけで済々黌の記事を何度も読み返しました。中でも印象に残ったのが、済々黌に通う親友のお兄さんから寄せられた言葉。確か、真面目にお勉強して現役でしっかり大学に行きたいなら某高校、部活も遊びも高校生活を思う存分楽しみたいなら浪人は当たり前だけど済々黌をおススメします、と言うような事が書かれていいました。 今から思うとかなりアホな中坊だけど、そんな価値観がカッコ良く思えたんですよね。ガリ勉は、ダサい(※全然ダサくないですよ)、的な。それに自分にとって大学進学なんて、まだまだイメージできない遠い未来の話しだったので、高校生活はもちろん楽しい方が良いに決まってる。そんな訳で、僕の済々黌に寄せる愛は一気に燃え上がりました。もちろん、済々黌の建学の精神、輝かしい歴史と伝統に魅せられた上での事です。とは言え、当時の成績は学年で約600人(市内1のマンモス校で14クラス)中、真ん中ぐらいだったと思います。紆余曲折を経て最終的には中3後半のラストスパートの努力が実り、なんとか嬉しい15の春を迎える事が出来ました。 4年制高校の1年時の思い出 1983(昭和58)年、憧れの済々黌の一員となった僕は、中学と同様にバスケ部へ入りました。2年生の先輩が1人だけだった事もあって、通常よりも早い時期から部活が中心の高校生活がスタートしました。顧問の先生は県下の高校バスケット界でも超厳しい指導で有名な母黌のOB。僕らも、しっかり鍛えて頂きました。ちなみに当時は恐怖の存在だったその顧問の先生とは、現在SNSで友達になっていて、時々、コメントのやりとりをさせてもらっています。もし、高校生の頃の僕にそんな話しをしても全く信じないだろうなあ。よく考えたらまったく想像もつかない未来を生きているのか。時の流れとテクノロジーの進化の偉大さを痛感します。 それはさておき、バスケには打ち込んでいたものの学業に関して言えば、高校での目標(大学進学など)を1ミリも抱いてなかったため、教科書はほとんど開く事もなく、教室の机の中で寂しい思いをさせていました。そんなふざけた事をやっていたら当然ですが、授業にはすぐに付いて行けなくなる。特に数学。中学生の頃は、得意で好きな科目だった事もあり、少し寂しい気持ちを感じていました。いや、だったら勉強しろよって話しですけどね。とにかく、済々黌の一員になれた事が嬉しくてしょうがなく、応援団の黌歌指導も、遠足も、恩賜記念大運動会も、とにかく黌内全てのイベントが刺激的で浮かれた日々を送っていたと思います。 そんな中、遂に済々黌で初の定期試験を迎えます。確か部活動は、3日前ぐらいから試験休みになったはずですが、ここで普段の遅れを取り戻すべく試験勉強に励むかと思えば、残念ながらそうではありませんでした。「やった!部活が休みだ、遊べる!」というとても間違った発想に基づき、同じ価値観を有する数人のクラスメイトと共に試験休みを別の意味で満喫してしまいました。結果、同学年10クラスで457〜458名中、確か451番か452番だったと思います。なかなか刺激的な順位でした。そうそう、割と最近この話しを5学年下の後輩とした際、「先輩、死後の世界にいたんですね」と、笑われました。「死後」つまり「45」で、学年順位が450番代の残念な生徒を指すそうなのですが、僕らの頃は多分無かった表現。いつから言い出しのか分かりませんが、うまいことをいいますね。そんなわけで僕は、成績不良の生徒という自我のブランドを確立させて、高校卒業までの日々を過ごす事になりました。ただ、ちょっぴり頑張ってだいたい300番代の後半ぐらいにはいた気がします。 そうこうしているうちに無事、期末試験も終わり夏休みに突入。つい最近知ったのですが、この夏休み期間中に学年で400番代の生徒は10日間もの補習があったようです。あの頃も母黌は、とても面倒見が良かったのですね。今更ながらですが、先生方に心より感謝致します。僕の夏休みは当然、バスケ部の練習三昧。3年生が引退して、新チームが始動。先にも述べましたが、2年生は新キャプテンの1人だけだったので、必然的に僕ら1年生が主体となるチーム作りに。とりわけ1年生大会を控えていた事もあり、恒例の阿蘇での合宿も熱がこもっていました。今から考えると高校での部活はあの頃が一番きつかったけど、一番楽しく、充実していたと思います。合宿後の練習試合の感触から、1年生大会は結構いけるんじゃないかと、内心かなりの自信を持ち始めていました。早くから1年生主体で、こんなにも密な練習をこなしてチーム作りを行えた高校は、他にはほとんどないはずだから。 そして待ち遠しかったトーナメントの抽選結果。しかしながら初戦の相手は、まさかの熊本高校。最も、あたりたくなかった相手。なぜかと言えば、この時の熊本高校には市内の各強豪中学から有名な選手が進学して、優勝候補の筆頭だったので。もちろん、そんなチームと対戦はしてみたいけど、出来ればもう少し勝ち進んでからの方が大会を楽しめるのに。と言うのが、正直な気持ちでした。それで弱気になってはいけないと、みんなで丸刈りに(※自主的です)なりました。なぜ、気合いを入れるために丸刈り(※自主的です)にするのかは謎ですが、よしやるぞと熱い気持ちになれた事は確かです。この後、高校最後の総体を含め、大会に臨むにあたって何度か丸刈り(※自主的です)にしたのですが、良く考えたら定期試験や実力テストでも気合い入れて丸刈りにしろという感じですよね。 全員クリクリ頭で迎えた1年生大会の熊高戦。とにかく食らいついて行こうと思っていたけど、ゲームが始まったら間に20点差を付けて、僕らがリード。予想もしなかった展開に中学時代から良く知る相手のメンバーが動揺してたいたのはもちろん、僕らもなんだか浮き足立ってしまいました。点を入れ過ぎて慌てるなんて経験は、あの時が最初で最後。その後、落ち着きを取り戻した熊高の反撃をくらって、前半終了時は逆転されましたがわずか2点差。最終的には、点差は忘れましたけど完敗でした。結局、熊高は危なげなく勝ち進み、決勝戦でも九学を圧倒。前評判通りの優勝を果たしました。僕らを倒したチームが優勝してくれた事は嬉しくもあり、一方で本当の文武両道を見せつけられた気がして、とても悔しく情け無い気持ちになったのを覚えています。ちなみにその時対戦した熊高のメンバー2人とは、4年後、早稲田の同好会で一緒にプレーする事になります。3年時に熊高の副主将を務めて現役で早稲田(法)に入学したNくんとは、今でも時々会うのですが、酔う度に「あの時(対済々黌戦)はマジで焦った、大会で一番やばいと思った試合だった」と言ってくれます。そうそう、彼の息子さんは済々黌に入学してバスケ部でした。感慨深い、バスケの縁です。 こうして高校1年生の夏は終わりましたが、学業に関しては相変わらず怠惰な日々を送る事になります。確かこの頃から、クラスで麻雀が流行り出したのかな。学生が麻雀にうつつを抜かす最後の時代だったと思います。麻雀は、学生を学業から遠ざけてしまう最悪の要因の一つ。今だと、スマホゲームになるんですかね。とにかく麻雀とバスケが中心の高校生活にしてしまい、定期試験では特に理数系の科目の赤点が当たり前になって行きました。それ以外は、特に大きな問題を起こす事もなかったと思います。文化祭や奈良・京都への修学旅行も、真面目に参加しました。 そして、高校生活も2年目に、と、その前に高校1年生最後のビッグイベントが待ち構えていました。クラスで2人だけが課せられた追試です。最も仲が良かったAくんと2人だけの敗者復活戦。これをクリアしないと2年生になれないわけで、もちろん留年する生徒は毎年います。どちらかと言えば、心配性な性格だと思うのですが、不思議な事に今振り返ってみても危機感を覚えた記憶がありません。追試を受けるにあたって、保護者(母親)が高校に呼び出されたのですが、母親の姿を遠くから見つけた僕は、呑気に手を振っていたようです。未だに母からは「Aくんのお母さんと済々黌に2人で呼び出されて、とても恥ずかしかった」と言われます。思えば、母親の初めての済々黌が、入学式でも卒業式でもなく、息子の追試のための呼び出しとは、少し親不孝でしたね。 ここまで書いていて、学業と進路に関する割と重要な出来事があったのは、1年生の時だったのを思い出しました。学年最後の実力テストの国語の科目が、学年1位の点数でした。クラスがちょっとざわついたと思います。そりゃそうですよね。常に300番台の中後半あたりを低空飛行していたのに1科目とは言え、いきなり学年トップなんですから。でもこれは、勉強をしなくても国語は出来たと言うような単純な話でもないので、取り敢えず誤解はしないでください。後から詳しく説明致します。 4年制高校の2年時の思い出 高校2年生は、中だるみの時期と言われていますが、僕もまさしくそうでした。バスケに関しても、通常であれば2年生の自分達が主体の新チームになるにも関わらず、むしろ1年生の頃より情熱は薄れていたと思います。理由は、有望な後輩たちが入部してきた事もあって、スタメンからは外れてしまい、試合への出場時間もどんどん減少していたためです。もちろんバスケは好きだし、練習は真面目に取り組んでいました。でも、ただそれだけ。授業も部活も何の目標も無いまま、なんとなく毎日を過ごしていたのでしょう。なので高校2年生の前半、中盤の記憶は、あんまりないんですよね。強いていうならば、僕は1年間教室の特等席である最前列が指定され、席替えを免除されていました。確か7列だったので、クラスの成績順で下から7番目までが、担任の先生の愛情によって最前列を与えられていたのです。この施策については、僕は個人的に良いアイデアだと今でも思っています。さすがに最前列だと居眠りはできませんからね。クラスでの下位セブンの成績順位がばれてしまう事に羞恥心を抱くようであれば、さらに効果的だったと思います。しかしながら僕はその様な繊細さが欠如していたので、担任の先生には申しわけなかったです。でも、実際のところ、200番台の後半ぐらいを時々取れるぐらいには成績が上がってきていました。おかげさまで、追試は受けずに3年生に進級できました。他に2年生の学校生活で印象に残っているのは、文化祭をクラスの全員が一体となって取り組んだ事ぐらいでしょうか。ただ、何をやったかはあまり記憶が定かじゃないですけど。 ところで、3年生へ進級するにあたって私大文系クラスを選択しているため、2年生の後半にはうっすらと、東京の大学に行きたいな、できれば早稲田に行きたいなと考え始めていたようです。なぜかというと、学内で受けた全国模試で適当に書いた有名私立大学(確か東京六大学のどこか)の合格判定が、Cだったから。当時の成績の僕からすると、雲の上の存在のような有名私立大学の合格判定がCと言うのは、まさに青天の霹靂。50%も合格率があるなら、頑張ったらどうにかなるかもと単純に思ったわけです。で、さらにアホなのですが、この時初めて早稲田も含めた有名私立大学の文系学部はだいたい3教科で受験できる事を知りました。恥ずかしながら、すごい大発見をした気持ちになって「早稲田ってたった3教科で受験できるんだよ。すげーお得じゃない?」と、何がお得なのかは不明ですが、興奮しながらクラスメイトに言って回った気がします。とにかく国語・英語・日本史の3教科で、早稲田を受験できることは、特に日本史が好きな僕にとって夢のように感じられたのだと思います。まあ冷静に考えたら教科が少ない分、難易度が上がるんですけどアホだから気づかない。でも、受験生はそれで良いのかも知れないです。目標に関しては、アホなぐらいポジティブに。無理だとかなんだとかの周りの雑音は気にする必要はないのです。努力するのは自分自身なのだから、行きたい大学を目指した方が健全。 地方の進学校はどこでもそうですが、進路指導に関しては国立大学至上主義。僕はそれで良いと思っていますし、むしろそうあるべきだと思っています。ただ当時、進路指導で私大文系クラスの希望を伝えたら、もう数学から逃げるのかと言われてしまい、それはちょっと違うんだけどなあと感じた事も確かです。僕の中では早稲田に行きたい気持ちが高まっていたので、数学から逃げるのではなく積極的な気持ちで3教科に集中したいのが理由だったから。とは言え、当時の成績からすれば僕の考えには説得力も無く、先生からそう言われてしまうのも至極当然の事でした。 ここで話はちょっとそれますが、大学の経済系の学部は専門課程で数学的要素が必要になります。なので私大専願で経済系の学部を志望する方は、全く数学が出来ないと結局大学入学後に苦労することは念頭に置いてください。さらに今後、数学の重要性はますます高まってくると思います。早稲田の看板学部である政経学部が、2021年の入試から数学を必須にしましたよね。受験業界にはかなりの衝撃を与えましたが、これは、その現れの一つです。ちなみに入学試験に数学必須を導入した当時の早大政経学部長で現早大副総長は、大変お世話になった方のお兄様なのですが、早稲田ではなく一橋大学の出身。大きな変革を成すには、やはり外部の血が必要なのだなと感心したものです。 話を元に戻すと、数学から逃げたわけじゃないけど、数学から解放されたうえで早大進学も可能だという希望の灯りを見つけた気でいた僕は、済々黌での最後の1年間を有意義に過ごすべく私大文系クラスの3年生に進級します。冷静に考えるとこの時点では、希望と言うよりも無謀でしたけど。 4年制高校の3年時の思い出 僕の当時の成績を考えると、とても失礼な事を承知で言いますが、確かに私大文系クラス(1・2組)は全科目の学年順位で測るとあまり芳しくない成績の生徒が集っていました。今、そのようなクラス分けがなされているのかどうかは知りませんが、当時は教師陣も他のクラスの生徒からもちょっと下に見られていたような気がします。もちろん、僕みたいな思い付きではなく、早い時期から志望校を私大に絞って専願クラスを望んだ人も中にはいました。なので、例えば1つの組は早慶上進学クラス、もう一つの組は関関同立進学クラスとかにした方が、生徒のモチベーションも上がるのになあと考えていました。かなり、図々しいですが。でも、生徒の自覚もかなり変わってくると思うんですよね。まあ県立高校が予備校みたいな真似は難しいのでしょうけど、現実的には進学校としての実績を残す必要があるので、もっと合理的でも良いのではと思います。 それはそれとして、ただの私大文系専願クラスの僕は、数学から逃れるのではなく積極的な気持ちで3教科に集中したいという目標はどこへやら、現役の受験生という緊張感は中々持てないままでした。高校最後の恩賜記念大運動会での応援団に参加したので、演舞の練習には集中しましたけど。高校総体の県予選が終わり、バスケ部も引退。書いていて愕然としたのですが、高校生活で最も時間を費やしたバスケの最後の大会をあまり覚えていません。それはやはり、スタメンではなかったからです。と言うより、ほとんど試合も出られなかったんじゃないかな。今思えば、何がなんでもレギュラーを奪取する気概を持たないまま、漫然と練習に参加していました。完全に受け身の姿勢。高校生の現役生活では学業もそうですが、大きく悔いが残る事です。 新学年になって初めての進路指導で志望校を問われた際、図々しい僕もさすがに早稲田大学とは言えず、少しだけ遠慮して他の有名私大の名前を笑顔で口にしました。「そうか、頑張れよ」と言う、励ましのお言葉を期待していたのですが、「ふざけるな、真面目に考えろ」と言う、目が覚めるようなありがたいお言葉を頂戴致しました。「お前が今の偏差値で行ける大学はここぐらいだ」と、先生が指し示した偏差値ランク順の大学リストを見ると、遠い南の島の聞いた事もないような私立大学でした。いやそれは、全教科の偏差値で見るとそうですけど、受験科目の3教科ならもうちょっと上ではと言いかけましたが、話がややこしくなりそうなので黙っていました。少し悔しかったと思います。しかしながらバスケ部も引退したので、この悔しさをバネにして100%受験生モードに切り替えたかと言うとそうでもなく、勉強量は多少増えたものの悪友たちとの麻雀の回数も増えました。夏休みは、よくあるパターンですが親には図書館へ勉強しに行くと言って出かけ、雀荘になっていたIくんの家に入り浸っていました。いつもIくんの親御さんが帰宅される前に退散するのですが、一度、鉢合わせてしまってすごく嫌な顔をされたのを覚えています。思い出すと、今でも心が痛みます。現役受験生の貴重な夏休みは、こんな感じで無駄に流れて行きました。※Iくんも浪人してからは僕と同様に麻雀仲間とは縁を切り、早大理工学部に合格。 秋を迎えて文化祭では仲間とステージに立ち、高校最後の盛大な思い出づくりを行なった後、僕はやっと正しい受験生になりました。悠長に基礎からやっている時間はないので、早慶の合格体験記(多分、「私の早慶大合格作戦 エール出版」)に書かれている参考書や問題集を片っぱしから購入して、受験勉強に取り組みました。そして、志望校の赤本と青本。後から後悔したのですが、なぜか肝心な時に怯んでしまい早稲田は比較的難易度が易しい文系の学部を第一志望にして、東京六大学から二つの大学の文学部を第二志望にして願書を提出。これは本当にブレた事をしたと思います。現役でも頑張れば合格するかも知れないと言うポジティブな気持ちより、現役は腕試しなので本番は浪人してからという意味不明な逃げの気持ちが勝ってしまったんですよね。 正しい現役受験生の日々を数ヶ月だけ過ごして、遂に受験シーズンを迎えます。僕は、それ程仲が良かったわけでもないクラスメイトのNくんと、今は廃止された寝台特急はやぶさで上京します。なぜ寝台特急かと言うと、なんとなく地方の学生が東京を目指す時は、寝台列車と言うイメージを持っていたからです。宿泊先は、代々木の国立オリンピック記念青少年センター。安いけど、全国から集う受験生と相部屋でした。 で、受験の結果を発表しますともちろん3大学、3学部とも不合格。やはり付け焼き刃では、太刀打ちできるはずもなく。でも、とても嬉しい事が一つありました。思わず涙ぐむほど感動的な。受験日の前夜、宿泊先の事務所から呼び出されたので行ってみると、電報を手渡されました。届けられたのは、進路指導の際に「ふざけるな、真面目に考えろ!」と言ってくれた先生から、駄目な教え子へ向けた励ましの言葉でした。 4年制高校の4年時の思い出 先生からの暖かい応援に応えることが出来ず、僕は、浪人生となりました。当時、熊本市にある大学受験の予備校は2校だけで、その大半を占めるのは母黌の卒業生と聞いていました。見慣れた顔ぶれだと、遊びの誘惑に負けてしまうかも知れない。かと言って、経済的に福岡や東京の予備校に行く事は不可能。よって僕は、自宅で浪人、つまり宅浪する事を決めました。受験対策の参考書や問題集は、前述の早慶の合格体験記に記載されていた物を中心に。そして過去問対策に受験する予定の早大政経・法・商・教育の赤本と青本。そさらに進研ゼミの当時あった予備校生向けの通信講座。通信講座と言っても、現在のデジタル化されたものではないですよ。定期的に送られてくる課題集を解いて提出すると、添削されて戻ってくるという紙ベースのアナログ方式。自分で作成した1週間の受験勉強のタイムスケジュールは、高校の授業よりハードな内容でした。 ここでちょっと話しを過去に戻しますが、1年生時の実力テストの国語での学年トップの件。実を言うと僕が宅浪を選んだ最大の理由は、国語と日本史に関して言えば模試などの結果が、そこそこのレベルにあったからです。あとは英語を頑張れば良いだけ(※簡単に考えていましたが、本当はそれが難しかった)と、思っていました。さんざん、高校時代は勉強してなかったと書いているのにどう言う事だと思いますよね。確かに高校の教室、教科書での勉強はしてなかったのですが(そのため定期試験での順位は低くなる)、小学4年生の頃ぐらいから読書と歴史が好きだったので、現代文も古文も日本史も、知識自体のベースが自然と身に付いていたようです。特に僕にとって日本史は、本格的な受験対策の勉強も過去問を解くのも趣味みたいなもので、まったく苦になりませんでした。なあんだ。と、思われるかも知れませんが、小学4年生から読書や歴史を覚えるために費やした時間を試験勉強の時間としてカウントすれば、数年間の長きに渡って受験に取り組んでいたとも言えますよね。 宅浪の成果を計るためには、代ゼミや駿台の全国模試を利用していました。予備校に通わなくても、申し込めば市内に設置された会場で受験できました。模試の成績は、ほぼ順調に上がって行ったと思います。一人で不安だったかと言うと、意外と平気でした。そもそも部屋に籠って読書するのが好きなインドア派でしたから。それに色々と心配してくれる友達もいて、特にバスケ部の赤点仲間で母黌を卒業後、市役所に勤務していたHくんは時々気分転換のためとドライブに誘ってくれたり、食事をご馳走してくれたりしていました。馬鹿なのに早稲田に受かるはずがないと笑う人も多かった中、ずっと応援してくれて、合格を報告した時は自分のことのように喜んでくれました。先に空へ旅立ってしまったけど、今でも心から感謝しています。また、一緒に浪人して東京の大学へ行こうと誓っていたのに福岡の難関私大に現役合格で進学した別の友人Aくん(※1年時に一緒に追試を受けたAくんです)は、受験で上京する前に太宰府天満宮のお守りを届けてくれました。そして1年生の時に同じクラスで、早稲田の政経に現役で入学したAくんは、励ましの手紙とお守りの代わりに僕が頼んだ現役早大生の彼が使っている鉛筆(受験の際に使用しました)を送ってくれました。 そんな優しい友人たちの応援のおかげもあり、僕は早稲大学商学部に合格して無事4年制高校も卒業することが出来ました。実は早稲田の4学部連続受験の前日に風邪をひいてしまい、特に前半戦はあまりの具合の悪さに退場しようかなと思った程で、2浪目も覚悟していました。風邪の原因は、宿泊施設の浴場が建物の外にあって体が冷えたことだと思います。体調管理は、本当に重要。そうそう、母黌を訪れ、電報で教え子を励ましてくれた先生に1年遅れで合格の報告をした際、とても喜んでくれたのと同時にすごく特殊なケース(在学時の成績不良と宅浪)なので、「教師としてはどう捉えていいのやら戸惑う」と、苦笑いされていました。 母黌の後輩の皆さまへ このコラムを書いている途中、母黌のWebサイトでスクールライフの年間主要行事予定表を見たのですが、僕らの頃よりも学習指導に関しては、かなり手厚くなっているなと感じました。生徒の管理体制の強化で、自由な黌風が損なわれていると言った声もチラホラあると耳にした事があります。しかしながら、個人的にはとても良い環境になってるんだなと思います。先生方を心配させていた自分の在学時代の事をすごく棚に上げますが、学生の本分は学業。ましてや母黌は、全国でも有数の稀有な歴史と伝統を持つ、熊本県が誇る進学校。学業に関して言えば、進学校と名乗るに相応しい実績を上げ続けるのは、済々黌に学ぶ者の責任です。それは過去に対しても、未来に対しても。僕のみっともない4年間を長々と綴りましたが、伝えたかったのは、僕らの頃の様に浪人して当たり前、自虐的に言う4年制高校をちょっとカッコいいと思っていたような価値観は、二度と流行らせてはならないと言う事です。自由な黌風とは、学業そっちのけで遊びを謳歌する事ではありませんよね。高校の青春は一度切りだからと遊びたくなる気持ちも理解出来ますが、同じく貴重な10代最後の1年、下手するとハタチの1年も勉強だけになってしまう可能性をお忘れなきように。在黌生時代、文も武も情けないくらい中途半端に終わり、真の意味の自由な黌風を吹かせられなかったOBより、自戒を込めて。

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    Writer藤田 勝久

    Illustratorわたなべみきこ(渡邊幹子)

    Date2022.11.01

  • vol.03

    キナセン気質と文化長屋のこと

    はじめに…キナセン気質とは何か 創立140周年おめでとうございます。昭和57年卒の元女子です。 わが高校時代の思い出を交えつつ。当黌ならではの「キナセン気質」について、まずは昨今思うところを述べたいと思います。 外面だけのバンカラには語る価値なし 最初に「濟々黌≒バンカラ万歳」的なとらえかたについて。昭和卒業の世代は誰もがなんとなく吉田拓郎さんの名曲『我が良き友よ』のイメージで、美風として認識してらっしゃると思います。実際、わたしの世代でも応援団はもちろんみんな弊衣破帽(ボロボロの学ラン&破れ帽子)でしたし、所属していた文芸部でも同学年男子1名、ひと学年上の先輩男子1名は真夏でも詰襟の学ランを着てた(正直若干におった)ほど、学校全体にそういう気風を尊び、伝統として守っていこうという空気がありました。 だがしかし、ちょっと待った。バンカラ万歳と手放しに賛美する前に、われわれはバンカラ自体についてもっと深く知るべきではないでしょうか。 そもそも、「バンカラ」は「ハイカラ」の対極として生まれた習俗。バンカラのバンは野蛮の蛮です。流行りのおしゃれを追いかける軽佻浮薄の風潮に抗う新たな価値観として、あえて野蛮な身なりを自らに課し、暗に「ニンゲンの価値は見かけじゃない」ことを、世の民に知らしめんとする。そういう意味を持った文化です。 戦前の第一高等学校を中心に、各地の旧制高等学校(※注1)から広まったバンカラは、一歩踏み込んで考えれば「メインストリームに対するアンチテーゼ」つまり「反骨精神(世の風潮や権勢に、あえてたてつく気骨)」を是とする文化。これこそ、真にわが母黌の三綱領にもうたわれているモットーに共通する価値観ではないでしょうか。にもかかわらず、われわれの世代含め、その伝統があまりに形骸化し、外面的な追従だけになり下がってはいませんか。大事な反骨精神そのものが、文字通り「骨抜き」になってはいませんか。 もし仮にそうだとすれば、昨今濟々黌を語るうえで避けては通れないあの話題、例の「校歌強制・丸刈り強制」裁判の是非についても、おのずと答えは出るはずです。 キナセン気質の弱点「悪ノリ・悪ふざけ」 いわゆる『シメ』と呼ばれる横暴な言動のベースには、濟々黌生特有の快活さ、いたずら好きでふざけるのが大好きな気質があります。 「校歌・丸刈り裁判」で、わたしが個人的にいちばん問題だと思うこと。それは、本来楽しいものであるべき「ノリ」や「ふざけ」が、行き過ぎた「悪ノリ・悪ふざけ」に発展してしまってはいないか? 自らを省みてそう問いかける必要性に、当事者自身が無自覚なこと。エスカレートしていくおふざけには、誰かがきちんとブレーキをかけるべし。間違っている、あるいは到底従えないと思ったら、できればその場で意思表明して欲しい。誰にでも、思ったことは遠慮なく言う。そしてそれを受け入れる自由・寛容の気風もまた、脈々と受け継がれる濟々黌の美風なのです(※注2)。 「伝統だからとにかく従え」…そんな言葉を口にする人たちは、残念ながら真のキナセン気質の理解に少々欠ける人たち。伝統、伝統といいますが、卒業式に帽子を投げる伝統などはかつては存在しなかった(※注3)し、女子が応援団の部長になるなんて絶対に考えられませんでした。ことほどさように伝統というものは、時代につれて変化するもの。何よりも個々の生徒自身の理解と自主的参画あってこその伝統だと個人的には強く思います。 入学式後の校歌強制? の思い出 とはいえ、たしかに入学式の前後で校歌はおぼえさせられた記憶あり。われわれ世代では、まず入学式の前か式典の中で、歌詞に関するミニレクチャーがあったと思います。その後、式が終わり教室に移動したのち、突如各教室順番に応援団の襲来を受けたはず(うろおぼえ)。それも、なんの予告もなく突然なだれ込んできてまたたく間に教団上に整列し、あっけに取られている間に「今から校歌を歌わせる」的なアジテーションが行われ、何度か「声が小さい!」と叱咤されつつわけもわからずとにかく歌った、ような気がします(うろおぼえ)。ご存じの通り純漢文調の文語体、読んでもすぐには意味のワカラン語句もありで正直ビビりましたが、わたしは歌うこと自体好きなのでとくに苦にはなりませんでした。  でも、生来声が小さい人、歌が苦手な人をつかまえて個別にすごんだり、嫌がる相手に無理強いしたりということはおそらくなかったと記憶しています。そのあたりの変遷があったのでしたら、各世代に聞いてみたいところです。 服装検査、頭髪検査は頓智でパス その一方で、上に記した反骨精神が伝統的に尊ばれていた証しとして「時には校則破りも許される寛容さ」が厳然と存在していたことも、個人的な記憶の中から紹介します。 われわれ世代での有名なエピソードとしては “応援団は下駄ばき御免”の実態。校則で決まっていた上履き(寡聞にして今はどうなのかわかりませんが、当時はプラスチック製の可愛くないスリッパ)も登下校時の靴も履かず、原則下駄かそれに類するもので闊歩していましたが、生徒指導に対し「水虫なので下駄しか履けません!」と歴代の誰かが開き直ってからある程度お目こぼしになっていた模様。 また、これは同学年の男子で、バンカラとは対照的に「自分らしい学ランの着こなし」にこだわっていたMクンの話。小柄ではしっこくてユーモアセンスにすぐれ、先生がたに愛された反面、頭髪・服装検査ではいつも目をつけられていた彼ですが、3年次の夏休み明けについに? パーマをかけて登校してきました。さっそく見つけた風紀担当の地理の先生(当時珍しいくらい大男。180cm≒昔でいう六尺内外あったと思います)に「なんかお前、そん頭は! パーマかけたつか!」と上から首根っこを押さえつけられ、小突きまわされつつニヤリと微笑みひと言。「ちがうとですよ先生。夏休み中、頭にパンツかぶっとったらこぎゃんちぢれたつです」――それを聞いて先生はもとよりまわりも大爆笑。 “当意即妙の返答に免じて” その場を無事逃げおおせる、という光景を、いまも鮮明におぼえています。上からの押さえつけを、ひょうひょうとユーモアで切り返し、上もまたその機知をよしとする。これこそ「キナセン気質」だと感じます。 もっとも、この先生ご自身、夏場は職員室ではランニングにステテコ姿、片手には団扇。下手をするとその格好のまま教室にきて授業、という方でしたので、どっちもどっちという気もします。おおらかな時代でした。 ちなみに。風紀担当の先生がたには女子もよくつかまって、わたしも含めさんざん小言を喰らっていましたが、Mクンに対抗する改造制服の愛好家、押しも押されぬ「美シルエットもまぶしい着こなし番長」だった同期女子のIさんは、いまではわが県の教育界を代表する偉い方になっておられます。 先生がたもスパルタだったけど今となっては良い思い出 昭和の頃の教育方針については、やはりひとことでいえば『スパルタ』というしかないかもしれません。個人的なことですが、一年次のはじめての物理のテストで見事赤点を取ったとき。テスト用紙返却の際、女子であるにもかかわらず男子と平等に長い直定規で頭をたたかれました。パ~ンといい音がしました(笑)。今となっては考えられませんが…それも今となっては良い思い出です。 他にも思い出深いのは、恐怖の水泳テスト。われわれの代、つまり昭和57年まであった25メートルの校内プールは、コースこそ6コースと少なかったものの、中央の深いところは水深3メートル、おまけに鉄製の高さ3メートルの飛び込み台つきの古色蒼然たるものでした(※注4)。 高校1年生の夏休みを目前にしてそこで行われる水泳テストでは、男女ともにだったと思いますが、25メートルを一往復、つまり50メートル泳げないと夏休みに2週間の補講が! しかも男子はそれにプラスして3メートルの高さから飛び込みを強制されるという、今では考えられない厳しいものでした。…当然怖くて飛び込めない男子多数。だがしかし、立ちすくんでいるとうしろから容赦なく突き落とされ、恐怖のあまり泣き叫びながら落ちていく…そのありさまはまさにこの世の地獄絵図! …まあ、深さがあるので怪我こそしませんが、なかにはパニックになり溺れかかる者も。そのため、プールサイドには浮き輪代わりのバスケットボールがたくさん用意してあり、溺れた者には無数のボールが次々と投げつけられ、――あのときほど男に生まれなくてよかったと感謝したことはありません(笑)。 そしてあの日、必死で50メートル泳いでなんとか補講を免れたわたしは、夏休み明けに愕然とします。なんと顔を水につける事さえこわがっていたカナヅチの同級生たちが、みんな「50メートルとか余裕♪」という河童たちに生まれ変わっていたため、その後の水泳授業ではいきなりヒエラルキーの最底辺にすべり落ちてしまうことになったからです。いったいどんな補講が行われたらああなるのか、いまだに想像するのも怖い、怖すぎる。心からそう思います。 自治の気風があった『文化長屋』 授業以外での濟々黌時代のよき思い出といえば、やはりなんと言っても文化系クラブの部室兼たまり場だった文化長屋。図書館の脇の長い小道を抜けて、棕櫚の木を横目に向かう文化長屋は思い出のなかでも相当オンボロで今にも朽ちてしまいそうなたたずまい(実際、卒業後ほどなく失火から全焼し今は影も形もありません)。文芸部の部室は、入口はいって正面廊下のすぐ右手。隣は新聞部。六畳あるかないかの広さでしたが、時代物の木製戸棚には歴代の先輩が編まれた文芸誌バックナンバーが揃い、古くは戦前の修学旅行ルポ(ガリ版刷りで、たしか京城・現ソウル~上海だった気がするがうろおぼえ)手描きイラスト入り、などもあり、それらを読んだり、文芸部員や他のクラブのみんなとダべったりしていると、時間はあっという間に過ぎていきました。 なぜか長屋には先生がたはほとんどおいでにならず、自然と学校の中の独立解放区として機能していたように思います。それだけに、授業に出たくない日(!)も登校して文化長屋にだけ行くなど、私にとっては校内の得がたいサードプレイスでした。今回の寄稿にあたり、とりあえずネットで「濟々(済々)黌 文化長屋」を検索してみましたが、悲しいことにまるで何にもヒットしません。あらためて昭和は遠くなりにけりということと、自分がインターネット老人会会員なのだということを痛感しました。 さらに蛇足。最近、わけあって濟々黌文芸部の現在の顧問の先生と現役の後輩2名と直接話す機会があったのですが、現時点では部室はなく、ふだんの部活は図書館で行っているとのこと。ちょっと気の毒だし、さびしい気がします。…その反面、いまは顧問の先生ご自身が「他校との交流を含め、いろいろな部活動を課外で引率」されるとお聞きし、隔世の感しみじみです。なぜかというに、われわれの時代の顧問の先生は部活にはまったくノータッチ。年1~2回刊行する文芸誌の刊行費用捻出のための広告取り(今と異なりタイプ印刷に出すので結構な費用が掛かる)、他校との『交流詩話会』という名の他流仕合、文化祭企画(教室展示では伝統的にカラーセロハンと黒模造紙を加工してステンドグラス風の装飾を制作。窓辺を彩りムードを演出し、パネルに自作の詩をイラストつきで手描きしたものを展示即売。同学年部員のNクンの家はふすま屋さんだったので玄人芸の高品質なパネルが出来あがり、おかげで3年次の文化祭では記録的な売り上げ額を叩きだした)など、すべての部活動を自主的に行っていたからです。唯一われわれ部員と顧問の先生との濃い接点は、年に一回文芸誌に見開き2ページで先生自作の俳句を掲載するために職員室に原稿取りに行くときだけでした。なつかしい。 おわりに…『クチヘンパク』のススメ 記念すべき節目にあたり、現役生また志望生、さらには卒業生でも、もし伝統を盾にしてくる誰かの言動に悩む人がいたら、ぜひ伝えたいこと。「間違っている」「到底承服できない」そう思ったら、遠慮せずに堂々と抵抗してください。三綱領の第一項【『倫理=人として守り行うべき道』を正しうし、『大義=生きていく上での大切な意味』を明らかにす】を武器に、安易で無自覚な伝統マウンティングを押し付けてくるパワハラ当事者に断固立ち向かってください。毅然としたあなたの態度が、将来的に後輩を助けることにつながります。 熊本弁に『クチヘンパク』という言葉があります。古語『口弁駁(くちべんぱく)』の訛りで、もともとの意味は現在の熊本弁でいう「屁理屈・くちごたえ」ではなく、「他人の説の誤りを突いて言い破ること」だそうです。ご一緒に、おおいにクチヘンパクして参りましょう。校歌は、…もしどうしても歌いたくなかつたら、いつそ丸谷才一先生にならつて裏声でうたつてはいかがでせう。 いずれにしても、自主自律の気風と反骨精神、そして困難に立ち向かうときも笑いとユーモアを忘れない姿勢こそ、キナセン気質のバックボーンだと個人的には思っています。これからの濟々黌高等学校のさらなる発展と飛躍を心より願っています!! 注1. 1949年まで置かれた旧制の高等学校。旧制帝国大学のいわば教養課程にあたる学校で、熊本には第五高等学校が置かれました。戦線の済々黌は旧制中学校でした。 注2. 名前を出すことはできませんが、卒業生の中には『部活に入らない者は応援団に入るべし』というので、同じことを言われたクラスメイト数人で 緊急避難的に『〇〇研究会』をたちあげ、急場を切り抜けた、という人>や、<ケース➁: 先輩から「うちの部は1年生丸刈り必須」と言われ「そんなら入るのやめます」とキッパリ言い返して「いやゴメン、丸刈りはせんでいいけん入部して」と謝られた、という人>もいます。やたらと先輩風を吹かすことで、どこまでいうことを聞くか試している、という気もします。 注3. 防衛大学校の卒業式を参考に、昭和57年の卒業式で一部有志の卒業生が発案し、卒業生男子がほぼ全員で行ったのが端緒です。 同年卒だけどまったくおぼえてない……。昭和57年=1982年といえば、年末に『愛と青春の旅立ち』が大ヒットした年なので、映画の中でリチャード・ギアはじめ士官学校生が卒業式に行った元祖の帽子投げが「カッコイイ!」ってことになり、われわれの一学年下の代からは別のイメージでそれが伝統化したのかも ^_^;)。 注4. ネットで調べたところ、昭和7年(1932年)竣工だそうです。ちょうど50年の節目にリニューアルされたということですね。

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    Writer野原 優子1982(昭和57)年

    Illustratorわたなべみきこ(渡邊幹子)平成8年

    Date2022.11.09

  • vol.04

    落ちこぼれ女子高生が見つけた居場所

     恥の多い生涯を送って来た。 だが、それでも自分のことを「失格」だと思わずに今日まで楽しく生きてこれたのは、人生を楽しむ土台が済々黌で作られていたからなのかもしれない。 自由を謳歌した高校時代  私が済々黌に入学したのは、ミレニアムイヤーの2000年。今年の3月で卒業して20年になり、記憶が曖昧な部分も多いのだが、140年の歴史の中では「若手」の部類に入る。  高1の春、私は「自由」を謳歌していた。 親の顔色をうかがうことなく、自分の意思で行動できる。ちょうど携帯電話が普及しだした頃で、友達との連絡も中学の頃と比べて格段に取りやすくなった。携帯電話のアドレス帳に名前が多い=友達が多いというような錯覚から、他のクラスの友達にも積極的に声をかけて仲良くなった。プリクラが流行っており、街に行けば誰かがプリクラを撮っていて、そこで仲良くなるような出会い方もあった。  入学してすぐにあった応援団の洗礼も5月にあった体育祭での演舞やフォークダンスも、「中学の時とは違う!高校生って大人だ!」と私をワクワクさせた。  もともと勉強をコツコツやるタイプではなく、済々黌へも本番に強い性格のおかげで受かったようなもので、勉強という概念は中学に置いてきていた。  クラスの女子会を開いて夜に遊んだり、仲の良いグループで小旅行に出かけたり、友人がファンだった歌手のコンサートに便乗したり、佐賀県で開催された「全国高等学校クイズ選手権」の予選に2年連続で出場したり。面白そうと思うものには飛びついて、ひたすら遊んでいた記憶がある。  済々黌生を表す言葉に文武両道があるが、残念ながら私は文武どちらも道を踏み外していた。入学当初に興味本位で軽音楽部と男子ソフトテニス部にマネージャーとして所属してはみたものの、軽音楽部の方は「ボーカル志望」ということにしてカラオケボックスに入り浸り、ソフトテニス部は行ったり行かなかったりしていたせいで試合の日を教えてもらえず「今日こそ頑張るぞ」と休みの日にお茶を作ってコートに行ったら誰もいなかったことがあった。笑い話にしているが、よく怒られなかったものだ。当時の部員に謝りたい。  勉強もひどい有様で、後ろから数えた方が早い順位をうろちょろしていた。不真面目だったエピソードは数多くあるが、2つだけ挙げておく。一つは授業中のおしゃべりをやめなかっため、温和な生物の先生に全身全霊のゲンコツをされたこと。垂直に頭の上に落ちてくる拳が、ずしんと重かったことは忘れられない。  もう一つは高3の夏、課外授業に出たくないあまりに友達と立田山に登ったこと。勢いで出発したからか手ぶらで、汗だくになったのにハンカチもない。仕方ないのでトイレに設置してあったトイレットペーパーで拭いて大笑いした。「現実逃避」という言葉に映像をつけるとしたら、あの時の私たちがぴったりだ。 唯一頑張った高2の文化祭  そんな不真面目な生徒だった私が、唯一何かを頑張ったことがあるとすれば、それは2年生のときの文化祭だ。  それはこんなシーンから始まる。私は教壇に立ち、クラス全員を見渡している。 「今から私が話すことを、目を瞑って聞いてください」 仰々しく話し始めたのは、ある「呪われた洋館」の話。昔イギリス人が住んでいた洋館は、今では呪われていて、迷い込んだ人は404号室の鍵を見つけださないと出られない・・・そんな恥ずかしいくらいお粗末な内容を大真面目に話した。  どう強引に持って行ったのかその企画は通り、私たち2年2組は「お化け屋敷」をすることになった。発案者の私がリーダーシップを発揮して大成功を収めた!と自慢したいところだが、覚えているのは「みんなが作ってくれた」ということだけだ。  まず、学年でも目立って面白かった男子に、お化け屋敷に来てくれた人に最初に聞かせる話を担当してもらった。台本を渡すわけでもなく、イメージを伝えたのみでいわば丸投げしたのだが、ストーリーを組み立て、おどろおどろしい声でテープに吹き込んでくれた。それを聞いた瞬間に、お化け屋敷の成功を確信したと言っても過言ではない。  また、突然動き出す人形役になった女子たちは、どう座っていたら怖いかを自分たちで考えてくれた。四つんばいで進む段ボールの通路を男子が協力して作ってくれた。クラスの女子のお父さんが好意で鏡に囲まれた「鏡の間」を作ってくれた。文化祭の直前に設置し最終日には割ってしまうという、贅沢な計画。そこには「スクリーム」という映画の仮面をつけたお化けが2人配置されたが、合わせ鏡の効果で何人もいるように見えた。  他にも、親に協力してもらって兄の同級生の親のマネキン工場からマネキンを1体丸々譲ってもらった。手足は血糊を付けて通路に転がし、頭はゴール付近で天井から落ちてくる仕掛けにした。こうして、かなり本格的なお化け屋敷が完成した。    どれも私だけの力ではなく、周りの人たちがどんどん進めてくれたからできたことだ。他の人のアイデアが掛け合わさることで化学反応がおきる楽しさを、この時に強く感じたからだろうか。今でも仕事をする上で、私は自分で発案したものでも人の意見をどんどん取り入れて変えていく。一人で考えたものよりいろんな人の意見が入った方がずっといいものができると、経験的に知っているからだ。  私たちのお化け屋敷は当日長蛇の列ができ、その後の生徒の投票による人気ランキングで1位を獲得した。 恩師と呼べる先生  聡明で親切な友達に囲まれて、楽しく過ごしていた3年間。楽しみすぎていたため、先生たちには好かれていなかったと想像する。ただそんな私にも、高校時代を思い出す上で欠かせない先生がいる。数学を担当していた大庭照次先生(通称:大庭っち)だ。  勉強全般で落ちこぼれていた私だが、とりわけ数学は苦手で、全くついていけなかった。試験は、「勘」か「雰囲気」、もしくは元から高い国語力で「推理」する形で受けていたため、それらがどれも外れると散々な結果になった。一度50点満点の試験で6点を取ったときは、自分でも笑うしかなかった。  それにもかかわらず大庭っちの授業は好きで、黒板にミミズのように這う数式を誰も解読できないときにも、私は読み解けて得意になっていた。全くできないのに一生懸命授業のノートを取る私に同情したのか、先生も可愛がってくれていた。なぜそう思うかというと、提出物を忘れた時など、生徒が一列に並んで出席簿で頭をゴツンとやられるのだが、他の人は1回なのに私だけ2回だったのだ。大庭っちの名誉のためにも、これは光栄なことだったと書き残したい。  高2の終わり。私の母はいよいよ勉強しない私を見限って「この子は進学させても仕方ない。就職した方がいいのではないか」と本気で悩んでいた。そんな折、先生と保護者の交流会で大庭っちの近くに座った母はそのことを相談した。 大庭っちの返答は、 「あの子は高校では面倒みきれません。大学に行かせな駄目ですよ」。 力強い言葉に母の悩みは晴れ、私は福岡の大学に進学させてもらえた。私は大学で人が変わったように勉強をした。最前列で講義をうけ、試験の前には友達がノートを借りに来た。興味があること、自分で選んだことなら勉強できる人間だと大庭っちは見抜いていたのかもしれない。  大学を卒業して10年間、編集の仕事についていたが、それも大学で国文学を専攻していたからこそ。人生を決定づけた一言・・・というと流石に持ち上げ過ぎか。 今に繋がっているもの  ここまで書いてきたように、楽しみを優先し、勉強を疎かにしていた私。だが、実はそれだけではない。人間的に幼く配慮が足りなかったために、人間関係の失敗もたくさんした。  40も手前になって、自慢できることではないこんな話を書いているのは、大人になった今、これらの経験を尊く思うようになったからだ。  いま私は障害者の就労を支援する福祉施設で働いている。心身ともに無理なく働けるよう援助する中で痛感していることは、自分を知ることの大切さだ。  自分にできることは何で、できないことは何か。自分が何を好きで、何にワクワクして、何があれば幸せで、どんな環境でなら活き活きと頑張れるか。それらが分かることで、就労後も長期的に活躍できる。自分を知る手立てとして有効なのが、自らやりたいこと選んで挑戦した経験や失敗した経験だ。  思えば済々黌は私にとって、自分を知るための土台となる経験がたくさんできた場所だった。自分で選び、失敗したことが今の自分に繋がっていると感じる。  また、賢く優しい友人たちは、私を尊重してくれ、違いを面白がってくれた。行きすぎた時には諌めてもくれた。自分の意見をしっかり持っていて、真っ直ぐに伝えてくれた。価値観がまだ柔らかかったあの時期に、そういった友人に出会えた意義は大きい。  進学校なのだから、成績が悪ければ居場所がなくてもおかしくない。だが、私はあの中で居場所を見つけ、活き活きと楽しんだ。それが叶ったのが、済々黌という高校の懐の深さゆえだと今は思っている。

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    Writer大木 萌子

    Illustrator岩間 美咲希

    Date2023.2.14

  • vol.05

    平成元年卒、1/458。わたしの「VS」ストーリー

    【ナイターVSドリフ】パパとコバカントクとセイセイコー 「カープのコバカントクはね、パパのセイセイコーのどうきゅうせいたい」。 これは、亡き父(1936~2014年、昭和30年卒)がよく発していた言葉だ。記憶は定かではないが、小さいときから繰り返し聞かされていたように思う。だからか、私は高校受験について考える年齢になるずいぶん前から、父が「セイセイコー」という名前の高校を卒業したこと、そして、そこに有名なプロ野球監督がいたことを知っていた(知らされていたというべきか)。 このコラムを読む若い世代のために記させていただくと、小気味よい音で幼い脳に刷り込まれた「コバカントク」とは、広島東洋カープを球団設立初の優勝へ導き、その黄金期を築いた元監督・古葉 竹識(※1)大先輩のことだ。執筆にあたり調べて分かったことだが、広島東洋カープが3度のリーグ優勝を果たした1979年・1980年・1984年に、1971年生まれの私は8歳、9歳、13歳。やはり小学校から中学校まで、父は監督のことを誇らしげに語りつづけていたのである。 しかし当時の私は、プロ野球に一切興味がなく、むしろ父が有無を言わさずチャンネル権を行使する「ナイター」が大嫌いだった。なぜなら、大好きなアニメやドリフの番組を邪魔する「にっくき敵」だったからだ。なので、父の「同級生自慢」が心に響くことはなく、古葉監督の名将ぶりを知ろうともしないまま年月は流れていった。 ※1 https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-128/ 【赤青VS黄緑】次女のScrambling Rock'n'Roll では、なぜ「そんな私が済々黌へ?」なのである。 理由を説明するには、少し生い立ちにふれなければならない。私には2歳ずつ違う姉と弟がいる、つまり「次女」だ。長女と長男、生まれながらにして「長」である姉と弟の間にはさまれて育った私は、いつの頃からか、自分だけが「次」の「女」であることを悔しく思うようになった。「姉のおさがり」を受け取ることや、「男だから」という理由で弟が優遇されることに不満を感じていたし、親の愛情が平等でないとすら考えていた。 今思うと幼稚で恥ずかしく両親に申し訳ないのだが、そんな思いにとらわれていたせいか、小さいときから「決めつけに従う」ことや「普通に倣う」ことを嫌う傾向にあった。例えば小学校で、「男の子は青、女の子は赤が普通」とされることが嫌だった。だから、黄色や緑の上履きを選び、好んで履いていたことを今でもよく覚えている。 しかも多感な年ごろを過ごしたのは、折しも1980年代だ。佐野元春が「つまらない大人にはなりたくない」とガラスのジェネレーション(※2)を代弁し、尾崎豊が「自由って一体何だい?自由になりたくないかい?」(※3)と問い、渡辺美里がマイレボリューション(※4)で「明日を変えよう」と歌い上げていた。にもかかわらず、「女の子は●●しなくていい」と言うことの多かった父とはどんどん折り合いが悪くなり、よりいっそう「決めつけのない自由な世界」に憧れを抱くようになっていった。 ※2 https://www.moto.co.jp/ ※3 http://www.ozaki.org/ ※4 https://www.misatowatanabe.com/ 【昭和30年卒VS平成元年卒】済々黌に行けば自由になれる!? そんな中学3年生にとって、済々黌の特徴である「自由な校風」は魅力的だった。また、赤でも青でもなく、黄色がシンボルカラーであることも気に入っており、おのずと「志望校」になったというわけである。しかし両親は「お姉ちゃんと同じ女子高に行けば?」と薦めていたと記憶している。親にしてみれば、姉妹が同じ学校に通えば安心できるという理由だったはずだが、私にとってそれは、またも姉の「次」になることを意味していた。 であれば、それより上を目指し、親を納得させるしかない。積み木くずし(※5)もどきの反抗的な次女が成績だけは落とさず頑張っていたのは、そのためだったように思う。当時、済々黌は姉が通う高校より偏差値が高く、男も女もいる共学であり、さらに父の母校であった。「長」でも「男」でもない私が、「父と同じ高校」に通うことが、父の押し付ける当たり前から自由になる「切符」のようなものだと思い込んでいたのかもしれない。 (しかし、父が亡くなったとき、「単純に父に認めてほしかった。結局は自分が兄弟の中で誰よりも父の背中を追いかけた子どもであった」ということに気がついた。もはや手遅れだが、このコラムを書くために、親子で済々黌について語り合える時間を持てればどれだけ素敵だっただろうと、大いに悔やんでいる) ※5 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%8D%E6%9C%A8%E3%81%8F%E3%81%9A%E3%81%97 【男子3:女子2】ツッパリ女子、自由をはき違えて入学する さて、である。1986(昭和61)年、春の入学式。 「自由な校風だけん、許されるよね」と、中学時代のよろしくない慣習を見事に引きずっていた私は、式直前に夜なべして制服を「改造」。髪の毛もオキシドールで脱色して登校した(笑)。目立ちたかったというより、ツッパリ少女よろしく「なめられたらいかん」といきがっていた。それでもなぜか先生に怒られた記憶がないのは、自分に都合の悪いことだから忘れているだけなのかもしれない。ただ、とにかく、まわりに「自分みたいな生徒」が少ないことに内心ビックリしたのを覚えている。 もう一つ驚いたのが、女子生徒の数だった。学年458名のうち約5分の3は男子(10組の内ひとつは男子クラス)。100名ほど女子のほうが少ないのだから、私みたいな生徒はやはり悪目立ちする。しかし、その姿で登校しちゃったのだから、もう引くに引けない。私の済々黌ライフは、そんな風に自由の意味をはき違えた状態でスタートしたのである。 その後は普通に(?)友達をつくり、写真部と茶道部にも入って平穏に過ごしていたが、悪目立ちが逆に功を奏したのか、高校2年生のとき運動会の「チア」に選ばれた。チアは3年生を中心に結成されるが、各団、数名ずつ2年生が参加するのが通例となっていた。私は当時流行していたエアロビクスやジャズダンスを学外で習っていたこともあり、踊れることがうれしくて参加。先輩たちにまじって楽しく練習に励んだ。そして、翌年の1988(昭和63)年、高2でチアを経験したという理由もあり、高3の運動会では「青団のチアリーダー」に任命された。 【応援団VSチア】高3の運動会、チア消滅の危機に奔走する ダンスの楽曲や振付、構成を決め、衣装をパターンから手作りし、他の団に負けないようなチアを「自由に創り上げること」は、0→1のやりがいがある経験だった。またリーダーとして、メンバーを率いる責任について学ぶ機会にもなった。写真部での活動もそうだが、「自分の手から何かが生まれること、表現をカタチにして発表することの面白さ」との出会いでもあったと思う。もしかしたら、クリエイティブな仕事を目指した原点の一つが、ここにあるといえるかもしれない。 しかし、練習を重ねていたある日、ショックな噂話がチアたちの耳に入る。「応援団の男子が今年の運動会にチアは要らんて言いよる」というのだ。急きょ、赤団、白団、黄団、青団のチアリーダーが集まって相談し、男子に確認することに。「誰がそんなこと言いよると?なんでそんなことになると?」。よくよく聞いてみると、一部の間で「男子だけでやりたい」という話が盛り上がり、それが広がったらしい。前述のとおり、当時の男女比は約3:2。彼らに差別意識があったわけではないと思うが、応援団に代表されるキナ線のバンカラは、やはり「男子の世界」と考えられていたように思う。チアは、彼らが思い描く「硬派なイメージに合わない」というのが言い分だった。「またしてもここで、女を理由に区別されるのか」と悔しく思ったのを覚えている。 しかし、チアリーダーも引き下がらなかった。各団の団長たちに掛け合い、女子の思いを伝え、最終的にはチア不要の意向を取り下げてもらうことに成功した。私たちは予定どおり練習を進め、晴れてその成果を運動会で披露することができたのである。この「チア消滅の危機事件」は、いまだに元年卒が集う同窓会や宴会で話題になるエピソードだ。当時を振り返り、「なんで俺たちはあぎゃんこつば言い出したとかね?」と、当事者だった男子も不思議がる。「今になって思うことだけど、当時、もっと済々黌の女子と仲良くすればよかった。でもあのときは、なぜかできんだったとよね」という男子もいて、そういえば私もどこか「男子に対して壁をつくっていた」ことを思い出した。 ちなみに、2022(令和4)年度の済々黌の生徒在籍数は、男子587名・女子639名だそうだ。女子が多い現在の生徒たちにとっては、ピンとこないエピソードかもしれない。男女雇用機会均等法が制定されたのは、私たちが入学する1年前(1985年)のこと。ようやく女性たちが居場所や役割を主張できるようになった、そんな時代であったことは確かなのである。 【世間VS文化祭】あの2人が司会だったイベントが中止に! 運動会に次ぐ花形イベントといえば、秋の「文化祭」だろう。中でも、目玉は「歌の祭典」。多くのアイドルや歌手が活躍し、ザ・ベストテンやレコード大賞、紅白歌合戦などが盛り上がっていた時代だけに、生徒が人気曲を歌ったり踊ったりして、面白おかしく演出するステージコンテンツだ。舞台上に立つのは、翌春に卒業を控えた3年生。そして、それを進行する司会に選ばれていたのが、有田くんと上田くん、つまり後の「くりぃむしちゅー※6」だった。コンビ結成前の彼らが取り組むことになっていた、運命的な「初ステージ」。これは同級生の間では有名な話だが、残念ながら彼らのプロフィールに記載はない。なぜか?それは、このステージが「実現しなかった」からだ。 1988(昭和63)年9月、昭和天皇のご容体の悪化が日本中に伝えられた。これにより、私たちにとって最後となる文化祭のメインステージも「自粛のため中止」を余儀なくされた。当時、私は、その舞台で「少年隊」を披露する予定だった男子に頼まれ、衣装係を担っていた。縁の下の力持ちとして、キラキラブルーのサテン生地を街まで友達と買いに行き、採寸し、かっこよく作ろうと意気込んでいた。そんな中、学校側から発表された中止は、準備を進めていた多く生徒たちを激しく落胆させたのである。 中には、決定を静かに受け止めることができず、直談判のため校長室へ乗り込んだ生徒もいた。最近になって、直談判した男子たちのおぼろげな記憶をつなぎあわせた話によれば、「すでにリハーサルまで進んどったと思うとよね。だけん、みんな納得できんかった。それで、結構な人数で校長室まで押しかけたとよ。なんでダメなのか、どうにかして実施できないのか強く訴えたばってん、歌の祭典の場合は派手というか、面白くするためにふざける内容というか……。それで、許可はできんて言われたと思う」。 ※6 https://naturaleight.co.jp/cream/ 【自分VS自分】たたかおう!自分らしさに出会うために こうして、日本中が自粛ムードに包まれる中、“世間の空気に挑んだ我らのたたかい”は全く勝ち目なく通り過ぎた。そして、翌年の1989(昭和64)年1月7日、昭和は幕を閉じ、どこか釈然としない思いを抱えたまま、平成元年を迎えたのである。 大学受験のとき、私の父は相も変わらず「女の子は県外に出なくていい。熊本の国公立に行きなさい。もし落ちても女の子に浪人はさせない」という腹立たしいルールを敷いた。結果的に第一志望の受験に失敗した私は、第二志望の大学に入学し、その大きな挫折が原因でしばらく腐って過ごしていた。しかし2年になって「このままではダメだ」と考え直し、チアのときにそうだったように、自分の得意を活かす活動をしたり、新しいサークルをゼロから立ち上げたりして、新たな前進を始めたのである。そして、そういった活動の一つひとつが、現在の仕事への道筋をつくり、今なお活かされている。 若さとは未熟さであり、未熟ゆえに自分の姿は見えにくく、叶いそうもない強い相手や大きな相手とたたかおうと無茶をする。その相手は、あるときは兄弟や友達、親や教師であり、あるときは勉強や部活であり、あるときは世の常識や偏見のようなものだ。しかし大概は、自分自身とたたかっているに過ぎない。喜んだり、感動したり、悔しがったり、苛立ったり、途方に暮れたりしながら、自分自身をのぞき込み、その姿を知るようになるのだ。私にとって済々黌は、中学時代に想像していたような「決めつけのない自由な場所」ではなかった。けれど、移り変わる時代のなかで自由や責任について考え、様々な経験を通じて、自分らしさと出会う機会を与えてくれたことに感謝している。 追記:ちなみに、あのとき司会をするはずだった2人がとんでもない人気者になったことが、抜け落ちた文化祭の思い出のピースを埋めてくれた気がしている。彼らのプロフィールにはない「歌の祭典」は、あのとき、リハーサル場所にいた生徒たちだけのプレミアムステージになった。私にとって彼らは、いつまでも自慢し続けたい、父にとってのコバカントクのような存在だ。 ※今回の執筆にあたり、集まって当時の思い出話をしてくれた同級生(松田くん、泉くん、吉田くん、富加見くん、槇尾くん、蓮尾くん、けいちゃん)、そして記事に登場することを許可してくれた、有田くん、上田くん、みなさんに感謝!

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    Writer宮崎 香奈子

    Illustrator岩間 美咲希

    Date2023.2.16

Coming soon…

本サイト予告Announcement

  • 01

    著名ライターによる140周年特別寄稿

    佐々友房はどのような人物で、なぜ三綱領を生み出したのか。様々な立場の人を交え、これからの済々黌について考えます。

  • 03

    140周年広報委員会
    スタッフのつぶやき

    今回の140周年企画では、三綱領を捉え直すという新たな試みを行います。
    その捉え直しを踏まえた、140周年スタッフの対談です。

  • 02

    資料室
    4名の三綱領解説

    4名による三綱領解説を通し、三綱領は現代社会
    そして未来に何を提案できるのかを紐解きます。

  • 01

    著名ライターによる140周年特別寄稿

    佐々友房はどのような人物で、なぜ三綱領を生み出したのか。様々な立場の人を交え、これからの済々黌について考えます。

  • 02

    資料室
    4名の三綱領解説

    4名による三綱領解説を通し、三綱領は現代社会
    そして未来に何を提案できるのかを紐解きます。

  • 03

    140周年広報委員会
    スタッフのつぶやき

    今回の140周年企画では、三綱領を捉え直すという新たな試みを行います。
    その捉え直しを踏まえた、140周年スタッフの対談です。

済々黌140周年記念サイト公開は

2022年1111

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