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卒業生によるコラム

キナセン気質と文化長屋のこと

2022.11.09

ライター:野原 優子

イラストレーター:わたなべみきこ(渡邊幹子)

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はじめに…キナセン気質とは何か

創立140周年おめでとうございます。昭和57年卒の元女子です。

わが高校時代の思い出を交えつつ。当黌ならではの「キナセン気質」について、まずは昨今思うところを述べたいと思います。

外面だけのバンカラには語る価値なし

最初に「濟々黌≒バンカラ万歳」的なとらえかたについて。昭和卒業の世代は誰もがなんとなく吉田拓郎さんの名曲『我が良き友よ』のイメージで、美風として認識してらっしゃると思います。実際、わたしの世代でも応援団はもちろんみんな弊衣破帽(ボロボロの学ラン&破れ帽子)でしたし、所属していた文芸部でも同学年男子1名、ひと学年上の先輩男子1名は真夏でも詰襟の学ランを着てた(正直若干におった)ほど、学校全体にそういう気風を尊び、伝統として守っていこうという空気がありました。

だがしかし、ちょっと待った。バンカラ万歳と手放しに賛美する前に、われわれはバンカラ自体についてもっと深く知るべきではないでしょうか。

そもそも、「バンカラ」は「ハイカラ」の対極として生まれた習俗。バンカラのバンは野蛮の蛮です。流行りのおしゃれを追いかける軽佻浮薄の風潮に抗う新たな価値観として、あえて野蛮な身なりを自らに課し、暗に「ニンゲンの価値は見かけじゃない」ことを、世の民に知らしめんとする。そういう意味を持った文化です。

戦前の第一高等学校を中心に、各地の旧制高等学校(※注1)から広まったバンカラは、一歩踏み込んで考えれば「メインストリームに対するアンチテーゼ」つまり「反骨精神(世の風潮や権勢に、あえてたてつく気骨)」を是とする文化。これこそ、真にわが母黌の三綱領にもうたわれているモットーに共通する価値観ではないでしょうか。にもかかわらず、われわれの世代含め、その伝統があまりに形骸化し、外面的な追従だけになり下がってはいませんか。大事な反骨精神そのものが、文字通り「骨抜き」になってはいませんか。

もし仮にそうだとすれば、昨今濟々黌を語るうえで避けては通れないあの話題、例の「校歌強制・丸刈り強制」裁判の是非についても、おのずと答えは出るはずです。

キナセン気質の弱点「悪ノリ・悪ふざけ」

いわゆる『シメ』と呼ばれる横暴な言動のベースには、濟々黌生特有の快活さ、いたずら好きでふざけるのが大好きな気質があります。

「校歌・丸刈り裁判」で、わたしが個人的にいちばん問題だと思うこと。それは、本来楽しいものであるべき「ノリ」や「ふざけ」が、行き過ぎた「悪ノリ・悪ふざけ」に発展してしまってはいないか? 自らを省みてそう問いかける必要性に、当事者自身が無自覚なこと。エスカレートしていくおふざけには、誰かがきちんとブレーキをかけるべし。間違っている、あるいは到底従えないと思ったら、できればその場で意思表明して欲しい。誰にでも、思ったことは遠慮なく言う。そしてそれを受け入れる自由・寛容の気風もまた、脈々と受け継がれる濟々黌の美風なのです(※注2)。

「伝統だからとにかく従え」…そんな言葉を口にする人たちは、残念ながら真のキナセン気質の理解に少々欠ける人たち。伝統、伝統といいますが、卒業式に帽子を投げる伝統などはかつては存在しなかった(※注3)し、女子が応援団の部長になるなんて絶対に考えられませんでした。ことほどさように伝統というものは、時代につれて変化するもの。何よりも個々の生徒自身の理解と自主的参画あってこその伝統だと個人的には強く思います。

入学式後の校歌強制? の思い出

とはいえ、たしかに入学式の前後で校歌はおぼえさせられた記憶あり。われわれ世代では、まず入学式の前か式典の中で、歌詞に関するミニレクチャーがあったと思います。その後、式が終わり教室に移動したのち、突如各教室順番に応援団の襲来を受けたはず(うろおぼえ)。それも、なんの予告もなく突然なだれ込んできてまたたく間に教団上に整列し、あっけに取られている間に「今から校歌を歌わせる」的なアジテーションが行われ、何度か「声が小さい!」と叱咤されつつわけもわからずとにかく歌った、ような気がします(うろおぼえ)。ご存じの通り純漢文調の文語体、読んでもすぐには意味のワカラン語句もありで正直ビビりましたが、わたしは歌うこと自体好きなのでとくに苦にはなりませんでした。 

でも、生来声が小さい人、歌が苦手な人をつかまえて個別にすごんだり、嫌がる相手に無理強いしたりということはおそらくなかったと記憶しています。そのあたりの変遷があったのでしたら、各世代に聞いてみたいところです。

服装検査、頭髪検査は頓智でパス

その一方で、上に記した反骨精神が伝統的に尊ばれていた証しとして「時には校則破りも許される寛容さ」が厳然と存在していたことも、個人的な記憶の中から紹介します。

われわれ世代での有名なエピソードとしては “応援団は下駄ばき御免”の実態。校則で決まっていた上履き(寡聞にして今はどうなのかわかりませんが、当時はプラスチック製の可愛くないスリッパ)も登下校時の靴も履かず、原則下駄かそれに類するもので闊歩していましたが、生徒指導に対し「水虫なので下駄しか履けません!」と歴代の誰かが開き直ってからある程度お目こぼしになっていた模様。

また、これは同学年の男子で、バンカラとは対照的に「自分らしい学ランの着こなし」にこだわっていたMクンの話。小柄ではしっこくてユーモアセンスにすぐれ、先生がたに愛された反面、頭髪・服装検査ではいつも目をつけられていた彼ですが、3年次の夏休み明けについに? パーマをかけて登校してきました。さっそく見つけた風紀担当の地理の先生(当時珍しいくらい大男。180cm≒昔でいう六尺内外あったと思います)に「なんかお前、そん頭は! パーマかけたつか!」と上から首根っこを押さえつけられ、小突きまわされつつニヤリと微笑みひと言。「ちがうとですよ先生。夏休み中、頭にパンツかぶっとったらこぎゃんちぢれたつです」――それを聞いて先生はもとよりまわりも大爆笑。 “当意即妙の返答に免じて” その場を無事逃げおおせる、という光景を、いまも鮮明におぼえています。上からの押さえつけを、ひょうひょうとユーモアで切り返し、上もまたその機知をよしとする。これこそ「キナセン気質」だと感じます。

もっとも、この先生ご自身、夏場は職員室ではランニングにステテコ姿、片手には団扇。下手をするとその格好のまま教室にきて授業、という方でしたので、どっちもどっちという気もします。おおらかな時代でした。

ちなみに。風紀担当の先生がたには女子もよくつかまって、わたしも含めさんざん小言を喰らっていましたが、Mクンに対抗する改造制服の愛好家、押しも押されぬ「美シルエットもまぶしい着こなし番長」だった同期女子のIさんは、いまではわが県の教育界を代表する偉い方になっておられます。

先生がたもスパルタだったけど今となっては良い思い出

昭和の頃の教育方針については、やはりひとことでいえば『スパルタ』というしかないかもしれません。個人的なことですが、一年次のはじめての物理のテストで見事赤点を取ったとき。テスト用紙返却の際、女子であるにもかかわらず男子と平等に長い直定規で頭をたたかれました。パ~ンといい音がしました(笑)。今となっては考えられませんが…それも今となっては良い思い出です。

他にも思い出深いのは、恐怖の水泳テスト。われわれの代、つまり昭和57年まであった25メートルの校内プールは、コースこそ6コースと少なかったものの、中央の深いところは水深3メートル、おまけに鉄製の高さ3メートルの飛び込み台つきの古色蒼然たるものでした(※注4)。

高校1年生の夏休みを目前にしてそこで行われる水泳テストでは、男女ともにだったと思いますが、25メートルを一往復、つまり50メートル泳げないと夏休みに2週間の補講が! しかも男子はそれにプラスして3メートルの高さから飛び込みを強制されるという、今では考えられない厳しいものでした。…当然怖くて飛び込めない男子多数。だがしかし、立ちすくんでいるとうしろから容赦なく突き落とされ、恐怖のあまり泣き叫びながら落ちていく…そのありさまはまさにこの世の地獄絵図! …まあ、深さがあるので怪我こそしませんが、なかにはパニックになり溺れかかる者も。そのため、プールサイドには浮き輪代わりのバスケットボールがたくさん用意してあり、溺れた者には無数のボールが次々と投げつけられ、――あのときほど男に生まれなくてよかったと感謝したことはありません(笑)。

そしてあの日、必死で50メートル泳いでなんとか補講を免れたわたしは、夏休み明けに愕然とします。なんと顔を水につける事さえこわがっていたカナヅチの同級生たちが、みんな「50メートルとか余裕♪」という河童たちに生まれ変わっていたため、その後の水泳授業ではいきなりヒエラルキーの最底辺にすべり落ちてしまうことになったからです。いったいどんな補講が行われたらああなるのか、いまだに想像するのも怖い、怖すぎる。心からそう思います。

自治の気風があった『文化長屋』

授業以外での濟々黌時代のよき思い出といえば、やはりなんと言っても文化系クラブの部室兼たまり場だった文化長屋。図書館の脇の長い小道を抜けて、棕櫚の木を横目に向かう文化長屋は思い出のなかでも相当オンボロで今にも朽ちてしまいそうなたたずまい(実際、卒業後ほどなく失火から全焼し今は影も形もありません)。文芸部の部室は、入口はいって正面廊下のすぐ右手。隣は新聞部。六畳あるかないかの広さでしたが、時代物の木製戸棚には歴代の先輩が編まれた文芸誌バックナンバーが揃い、古くは戦前の修学旅行ルポ(ガリ版刷りで、たしか京城・現ソウル~上海だった気がするがうろおぼえ)手描きイラスト入り、などもあり、それらを読んだり、文芸部員や他のクラブのみんなとダべったりしていると、時間はあっという間に過ぎていきました。

なぜか長屋には先生がたはほとんどおいでにならず、自然と学校の中の独立解放区として機能していたように思います。それだけに、授業に出たくない日(!)も登校して文化長屋にだけ行くなど、私にとっては校内の得がたいサードプレイスでした。今回の寄稿にあたり、とりあえずネットで「濟々(済々)黌 文化長屋」を検索してみましたが、悲しいことにまるで何にもヒットしません。あらためて昭和は遠くなりにけりということと、自分がインターネット老人会会員なのだということを痛感しました。

さらに蛇足。最近、わけあって濟々黌文芸部の現在の顧問の先生と現役の後輩2名と直接話す機会があったのですが、現時点では部室はなく、ふだんの部活は図書館で行っているとのこと。ちょっと気の毒だし、さびしい気がします。…その反面、いまは顧問の先生ご自身が「他校との交流を含め、いろいろな部活動を課外で引率」されるとお聞きし、隔世の感しみじみです。なぜかというに、われわれの時代の顧問の先生は部活にはまったくノータッチ。年1~2回刊行する文芸誌の刊行費用捻出のための広告取り(今と異なりタイプ印刷に出すので結構な費用が掛かる)、他校との『交流詩話会』という名の他流仕合、文化祭企画(教室展示では伝統的にカラーセロハンと黒模造紙を加工してステンドグラス風の装飾を制作。窓辺を彩りムードを演出し、パネルに自作の詩をイラストつきで手描きしたものを展示即売。同学年部員のNクンの家はふすま屋さんだったので玄人芸の高品質なパネルが出来あがり、おかげで3年次の文化祭では記録的な売り上げ額を叩きだした)など、すべての部活動を自主的に行っていたからです。唯一われわれ部員と顧問の先生との濃い接点は、年に一回文芸誌に見開き2ページで先生自作の俳句を掲載するために職員室に原稿取りに行くときだけでした。なつかしい。

おわりに…『クチヘンパク』のススメ

記念すべき節目にあたり、現役生また志望生、さらには卒業生でも、もし伝統を盾にしてくる誰かの言動に悩む人がいたら、ぜひ伝えたいこと。「間違っている」「到底承服できない」そう思ったら、遠慮せずに堂々と抵抗してください。三綱領の第一項【『倫理=人として守り行うべき道』を正しうし、『大義=生きていく上での大切な意味』を明らかにす】を武器に、安易で無自覚な伝統マウンティングを押し付けてくるパワハラ当事者に断固立ち向かってください。毅然としたあなたの態度が、将来的に後輩を助けることにつながります。

熊本弁に『クチヘンパク』という言葉があります。古語『口弁駁(くちべんぱく)』の訛りで、もともとの意味は現在の熊本弁でいう「屁理屈・くちごたえ」ではなく、「他人の説の誤りを突いて言い破ること」だそうです。ご一緒に、おおいにクチヘンパクして参りましょう。校歌は、…もしどうしても歌いたくなかつたら、いつそ丸谷才一先生にならつて裏声でうたつてはいかがでせう。

いずれにしても、自主自律の気風と反骨精神、そして困難に立ち向かうときも笑いとユーモアを忘れない姿勢こそ、キナセン気質のバックボーンだと個人的には思っています。これからの濟々黌高等学校のさらなる発展と飛躍を心より願っています!!

注1. 1949年まで置かれた旧制の高等学校。旧制帝国大学のいわば教養課程にあたる学校で、熊本には第五高等学校が置かれました。戦線の済々黌は旧制中学校でした。

注2. 名前を出すことはできませんが、卒業生の中には『部活に入らない者は応援団に入るべし』というので、同じことを言われたクラスメイト数人で 緊急避難的に『〇〇研究会』をたちあげ、急場を切り抜けた、という人>や、<ケース➁: 先輩から「うちの部は1年生丸刈り必須」と言われ「そんなら入るのやめます」とキッパリ言い返して「いやゴメン、丸刈りはせんでいいけん入部して」と謝られた、という人>もいます。やたらと先輩風を吹かすことで、どこまでいうことを聞くか試している、という気もします。

注3. 防衛大学校の卒業式を参考に、昭和57年の卒業式で一部有志の卒業生が発案し、卒業生男子がほぼ全員で行ったのが端緒です。 同年卒だけどまったくおぼえてない……。昭和57年=1982年といえば、年末に『愛と青春の旅立ち』が大ヒットした年なので、映画の中でリチャード・ギアはじめ士官学校生が卒業式に行った元祖の帽子投げが「カッコイイ!」ってことになり、われわれの一学年下の代からは別のイメージでそれが伝統化したのかも ^_^;)。

注4. ネットで調べたところ、昭和7年(1932年)竣工だそうです。ちょうど50年の節目にリニューアルされたということですね。

野原 優子Nohara Yuko

1982(昭和57)年 熊本県立済々黌高等学校卒業。熊本県立済々黌高等学校卒業。勤め人時代を経て、1995年よりフリーランスの広告屋として活動。主な事業内容は、企業や店舗とお客さまをつなぐコミュニケーション全般に関わる戦略立案やツールの策定、企画書の作成、広告物のディレクション〜コピーライティングなど。2012年、長年暮らした福岡から熊本にUターンし、現在は西区・本妙寺山のふもとあたりに生息しています。

わたなべみきこ(渡邊幹子)

イラストレーター・デザイナー。平成8年卒業、金沢美術工芸大学 油画専攻中退。 事業会社・制作会社でのデザイナー職を経て、2011年東京在住時にフリーランスに。web・グラフィックデザインと併行して、書籍、広告、パッケージ、店舗装飾などにイラストを提供。現在は熊本市在住。二児の母。

野原 優子Nohara Yuko

1982(昭和57)年 熊本県立済々黌高等学校卒業。熊本県立済々黌高等学校卒業。勤め人時代を経て、1995年よりフリーランスの広告屋として活動。主な事業内容は、企業や店舗とお客さまをつなぐコミュニケーション全般に関わる戦略立案やツールの策定、企画書の作成、広告物のディレクション〜コピーライティングなど。2012年、長年暮らした福岡から熊本にUターンし、現在は西区・本妙寺山のふもとあたりに生息しています。

わたなべみきこ(渡邊幹子)

イラストレーター・デザイナー。平成8年卒業、金沢美術工芸大学 油画専攻中退。 事業会社・制作会社でのデザイナー職を経て、2011年東京在住時にフリーランスに。web・グラフィックデザインと併行して、書籍、広告、パッケージ、店舗装飾などにイラストを提供。現在は熊本市在住。二児の母。

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