黌辞苑

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140周年特別寄稿

済々黌 三綱領をひもとく。
前編 馬上の美少年、佐々友房がたどり着いた地平。

2022.11.11

ナビゲーター:田中 泰延

ライター:井関 麻子

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第1条 正倫理 明大義(倫理を正し大義を明らかにす)
第2条 重廉恥 振元気(廉恥を重んじ元気を振ふ)
第3条 磨知識 進文明(知識を磨き文明を進む)
日本最後の内戦・西南戦争を生き抜き済々黌を開いた佐々友房が、開黌と同時に制定した三綱領。140年を経た今も脈々と受け継がれ、愛され続ける三綱領には、何か特別な秘密があるのではないか……!? その謎を解明するため、取材チームはアマゾンの奥地、もとい佐々友房や済々黌にまつわるゆかりの地へと向かった。

漫画『佐々友房 済々黌ものがたり』樫木ナスカ

三綱領を外から眺めると?

いま一度、三綱領をさまざまな角度から眺め、触れ、解読してみたい。それが本記事の趣旨である。ナビゲーターは田中泰延(ひろのぶ)氏。25年間のコピーライター人生から一転、現在は自ら立ち上げた「ひろのぶと株式会社」の代表としても活躍中の文士である。ちなみに済々黌とは特に縁もゆかりもない。

が、前知識のないことこそが、今回の探求におけるキモなのだ。佐々友房も済々黌も知らない、初耳ばかりの田中氏によってもたらされる視点。まっさらな “外の目” から見つめることによって、三綱領を新たに発見したいと考えた。

僕は済々黌、好きじゃ。

まずは、熊本市在住の思想史家・歴史家・評論家である渡辺京二さんを訪ねる。主に西南戦争から済々黌創立までの、若き佐々友房の面影を追ってみたいと考えた。

佐々友房の『戦袍日記』を読むと、水俣や人吉を転戦する際に、現地の人を「土民」と書いています。それは蔑称ということではなくて、土着の人ということで距離を感じていたようですね。当時はもう明治10年なので、とっくに熊本藩ではなく日本国になっていたはずですが、まだ国民としての一体感は、彼の中になかったのでしょうか。

当時の侍としては普通のことだったろうね。土民というのは、侍じゃないという意味もあった。これは徳富蘇峰も書いているけど、江戸時代までは士族と平民の隔たりが大きかったんだ。

渡辺先生は熊日(熊本日日新聞)で、熊本の近代化にまつわる連載「小さきものの近代」をお書きになられていて、現在は70回ほどを数えるそうですが……。

もう、だいたい110回までは書いちゃった。

そんなに先まで。なんでそんなに筆が早いんですか。

じゃないともう死ぬから。92歳ですから。西南戦争についても少し書いたけどね、友房が池辺吉十郎に付いて鹿児島に行く話も。池辺という人は基本的にイケイケドンドンの人だったのよ。ところが分別があるわけだ、佐々友房って野郎は。池辺が猪突しようとすると「まぁまぁ」といってなだめたりする。分別あるというか、周りを見回すことができたんだな。そしてみんなを動かす才能があった。

西南戦争の頃は23歳くらいですよね。カッコいいなぁ佐々さん。

池辺が大隊長で友房は第一小隊長(200名程度を束ねる)、上には先輩の幹部がいたけども、斬刑にあった。だから戦争が終わって、熊本をまとめたのは友房だったのよ。彼は(牢屋と自宅謹慎から)出てきて、もう二度と「せんばい」と思ったと。「こういう武力反乱なんか、二度とせんばい」て。

魂の叫びですね。

そして佐々は地元を固めた。熊本隊の生き残りを固めた。熊本をまず制覇しようとした。それで済々黌をつくった。でね、済々黌の生徒は大江義塾(徳富蘇峰が開いた私塾)の生徒を襲撃しよったのよ。

そうなんですか!

大江義塾に石持って投げに行きよったったい。戦後は無くなったけれども、昔は学校同士、対抗意識があってさ、学校同士の生徒の喧嘩はしょっちゅうだったの。田舎ではよその村を通るとき、よその村の学校の生徒が全部仕掛けてくるから(笑)大江義塾も応戦したっていう話が残ってるたいね。

(笑)

商大(熊本商大、現在の熊本学園大学)に甲斐弦(かい ゆずる 1910-2000年 英文学者・作家『オーウェル紀行』など著作あり)さんという先生がいらっしゃった。ご存じかな?

済々黌ご出身だったんですか?

そう。甲斐先生が書かれた済々黌は、本当に友情溢れるというか、また先生とね、生徒の間の関係というのがね、本当に愛情深いものがあってね、良い中学と書かれているわけ。済々黌のそういうもの(風土)を創ったのは、そらやっぱり友房だったんでしょうたい。

なるほど。

友房は若手でありながら、西南の役でも実質的にはずっと先頭に立っていた。彼が吉次峠を守ったわけだろ? 吉次峠は守ったけれども、熊本城の囲みが破れて、御船方面に退くたいね。そこで敗れて、人吉で敗れて、都城でも敗れて、今度は宮崎を北へ北へと延岡まで行って、最後に長井村で包囲されて投降するだろ。そのあいだに、やっぱり熊本隊のリーダーシップを握ったんじゃないかな。

投降時には中隊長になっていましたね。

彼は、どういったらいいのかなあ。親分になれる人間。そういう素質を持てた人間。思想性を問うなら「あぎゃんた、いっぱいおるけんな、国権主義者は(ああいうのはたくさんいるからな、国権主義者の中には)」。

特別に珍しい思想ではなかったと。

うん。ただ教育者としてはね、やっぱり済々黌を出た人が特別な愛校心を持ってるからねえ。それだけの教育者としての素質のあった人なんでしょう。熊中(現在の熊本高校)出てるやつは冷淡だよ、自分の高校に。僕も熊高だけど(笑)

そうなんですか(笑)

友人もね、済々黌も熊高もおるけど、どっちかというと僕は済々黌を出たやつが好きじゃ。

どのあたりが?

なんかあいつら、男らしい仁義みたいなものがあってな。熊高のやつはな、澄ましとる。

わはは! 最後に、佐々友房のどういうところが熊本の人たちの心を掴んだんでしょう。

やっぱり友房は気配りの人。各人をずーっと見渡して、この人にはこう言うべきだ、この人にはこう言うべきだ、この人にはこう世話してやるべきだと、そういう目の届いた人間だろたい。それは人に対する愛情でもあるよね。だから子分から見れば「うちの親分は面倒見がいいばい」とか「自分のことを考えてくれとるばい」てことになるわけだからね。

佐々さんの、人としての魅力が少しわかった気がします。ありがとうございました。

三綱領はソーシャルグッド!?

次に訪れたのは、西南戦争最大の激戦地のひとつに数えられる田原坂。佐々友房が守り抜いた吉次峠や、田原坂西南戦争資料館では、今も当時の熱を感じることができる。

再び若き佐々友房の面影を追い、熊本市文化財課 植木分室を訪ねた。お話を聞かせてくれたのは『西南戦争のリアル 田原坂』を著した中原幹彦さんと、熊本市経済局文化・スポーツ交流部文化振興課の美濃口雅朗さんだ。

佐々友房は士族だけではなく、誰でも受け入れる学校を創りましたよね。戦争に負けて、処分も受けて、体も壊して。お金も持っていない訳で。

持ってない(笑)その当時の人間は、みんな持ってない。

そんな状態で、まだ自分も20代で……。開黌直後は自ら学校に泊まり込んで直々に教えたりもしている。かなり熱心だったんだなぁと不思議に思うのですが。

それはね、今の私たちから見ると不思議なんであって。昔の人に打算はないんです。極端な話、自分の命がなくなろうが、家族が食い詰めようが関係なく、国のためにやらなきゃいけないと思ったらやるんです。

その「国のため」の国の範囲も、ガラリと変わる時代だったんですよね。

江戸時代は、国といえば肥後国=今でいう熊本県ぐらいの範囲だった。ところが、それが明治時代に、西南戦争を経て一変します。日本全体がひとつの国で、その頂点にいるのが天皇ですよっていう風に変わっていく。日本という国を認識できるようになったのは、おそらく西南戦争後だと思います。その後、明治33年に「汽笛一声新橋を〜」っていう鉄道唱歌が。

日本で最初の汽車が走った。近代国家への時代の大きな転換点ですね。

もうひとつ、気になっていることがあります。佐々は、三綱領にどれぐらいの広がり、思想性を持たせたのか、ということです。さきほど仰られたように、西南戦争を契機としてLocal Governmentの考え方からState Nationに思想が切り替わっていった訳ですよね。

思想は大前提だったんじゃないですか。国のために、具体的にこういう風に行動しなさいよっていう。それが日本という国の行末を安泰させるんだ、ということだと思います。「尊王敬国」なんて、天皇を敬う、国を敬う。まんま国のことが書かれてますよね。

そこらへんも僕らからすると「あれ、官軍に弓引いてなかった?」と思っちゃう。

戦争って、西洋的な感覚でいくと白か黒かの二元論で語られるでしょ。でも、西南戦争は単に方法論の違いであって目指すものは一緒なんです。だから、佐々友房にしても戦争に負けたからといって考え方は変わっていないんです。武力という手段で負けてしまったから、次は言論でやれば良いじゃんと。それが後に政党政治になっていきます。

西南戦争は、反逆のための戦争でもなければ独立のための戦争でもないと。

両軍の目的は一緒なんです。より良い国をつくる。西洋、例えばフランス革命やロシア革命では、支配階級の首は全員切られて、そのうえで新しいものを作りますよね。少なくとも日本において、西南戦争の場合はそうではない。

じゃあ佐々さんは、戦争を期に性格が大きく変わったわけじゃないんですね。色々な資料を辿られた中原さんから見て、佐々さんは、どんな人だったと思われますか?

すごい元気な人。行動力がある。ふふ、これぜひ読んでほしい。「熊本隊はあにきょうせずにあらずや」。味方の薩軍兵から「あいつらあんな無茶苦茶なことやって狂ってんじゃねーの」と書かれているんです。ものすごい厳しい戦況で、わずかな手勢で真夜中に突っ込んでいったりしてね。佐々本人も「その激烈に驚かずんばあらず」って自分にびっくりしちゃってる(笑)

その後、学校を創る人とは、とても……。

それは繋がるんですよ。この当時、そのぐらいの気持ちがなかったら学校なんて開けない。当時、学費も取ってないでしょう? 学費も取らんでどうやって運営していくと?って話ですけど、そんなこと一切考えないんですよ。ね、変わってないでしょ。まず行動。元気一杯。

私のイメージも良いですか? 江戸時代って大変な教養時代なんですよ。さまざまな階層に適合した教育機関ができてくる。そういった時代の中で、本来の国家像がどんなものなのか語られるようになっていきます。天皇陛下は偉いよね。我々武士は、天皇の民で国を預かっている立場だよね。という意識が、知的階級の中で高まってくる。

そこにペリーがやってきて、国家的な独立の危機を感じて……。

そうして、いわゆる尊皇攘夷というキャッチフレーズが若い武士階級の間で共有されて、大きなうねりとなって、倒幕が果たされる。ある意味、生まれたばっかりの国だから、私たちが思うより楽天的なムードがあったと思います。明治の知識階級の人たちって、実に楽天的なんですよ。

へぇ〜!

若い人たちが「自分たちの能力を生かして国を動かしていくぞ」と考えて、実際にやり遂げていった。その中でやっぱり教育が人材育成のための根幹だと。次は教育だよねと。だから、佐々さんのステージが教育に移ったのは、自然なことだったと思いますね。

佐々たちは、明治時代になったとき10代だったじゃないですか。多感な時期に古い日本が終わって新しい日本になる。そりゃ希望しか見えないですよね。

昨年の大河ドラマにもありましたけど、その多感な時代に西欧列強を見てくるでしょう。世界を知って「日本やばい、遅れてる!」という危機意識が大きな原動力になったと思います。だから「俺にはまだやることがある」っていう楽天主義につながっていく。

なるほど。

今の若い人たちは国家像までは踏み込まないと思いますけど、新しい価値観を持って、すごく積極的に新しいツールを使いこなすじゃないですか。彼らは新しい価値観を持っていて、それは危機意識にも繋がっている。で、新しいツールを使って社会に働きかけようとしている。ステージは違うけど、明治維新と変わらないところがあるんじゃないかな。だから、この話は必ず若い人たちに響くと思う。

三綱領の大事な言葉で「大義」というものがありますよね。古いおじさんたちは国と結びつけたがるけど、もっとソーシャルグッドみたいな、もとの言葉の原理に近いところに紐付けたら良いんじゃないかなと思ったりしていて。明治の人たちは明るくて夢があって、国そのものをソーシャルグッド的につくろうとしたんですよね。

そうです。ところが第二次大戦に突入する時代になると、明治につくった国家観は固定されてしまっているんですよね。

「佐々さんは国を目指していたんだよ」っていう、その“国”が変質しているから、そうではなくて、明治と今をつなげる話をしなきゃいけないのかもしれません。みんなソーシャルグッドを思って行動したと。

済々黌生はバンカラで、元気を振るって。

濃密な取材が続いた1日目の締めくくりには、済々黌の同窓生が集う『多士会館』で同窓会メンバーに話を聞いた。メンバーは、同窓生の白濱裕さん(昭和46年)、吉永慎一さん(昭和48年卒)、中村俊雄さん(昭和44年卒)の3名。

みなさん、三綱領は今も覚えてらっしゃいますか?

あぁ〜。

あぁ〜。

不思議なため息が(笑)

今もそらで言えますよ。

30年、40年、50年と唱えて来られて、未だに分からないところってありますか?

あぁ〜。大義の解釈かなぁ。

大義が一番、分かれるかもしれませんね。

そこをどう捉えるかは、ぜひ伺いたいです。佐々先生の仰られた大義というのが、どこを目指したものなのか。国家なのか、地域なのか、心の中か。それぞれの解釈をお伺いしたいです。

時代によって違ってくると思いますね。佐々先生の頃は国。佐々先生は勤皇家ですからね。皇室のことも入っているでしょうね。あとは日本の国柄とか国体とか。今はやはり、人の行う道とか道理とか道義とか、そういう意味で捉えている人が多いかもしれません。

在校中、そういう思想的な部分は感じておられました?

それはですね、ないですね(笑)よく分からないまま唱えていたかもしれないですね(笑)

ははぁ、なるほど。実は孔子も言っているんですけれども、詩経とか言葉というのは、唱えて頭に入ってから、すっかり忘れなくなってから「これどういう意味なんだ?」って考えるのが人生における学びであると。最初は分からずに、まず型を入れられる訳ですね。面倒だな、嫌だなって思うことはなかったですか? それともカッコいいと思っていたとか。

あんまり意識していなかったような気がするなぁ。

僕らは昨日から、佐々先生が戦いを経て、三綱領を掲げて教育と国起こしに向かわれた足跡を辿ってきました。そのことを、在校生や同窓生のみなさんがどんな風に捉えてらっしゃるのかな、というのをお伺いしたくて。

やっぱりその時代、その人の環境によって、捉え方が少しずつ違ってくるのが自然ですよね。個人的には「知」よりも「倫理」、徳育が先に来ているというのを、私は感心しているところです。

まず勉強しようじゃなくて、人間としての倫理を確立するのが先だと。あぁ、佐々先生の心が伝わってきますね。ちなみに、明日は在校生たちとお話する予定なんです。済々黌140年の歴史の中で、どういう事柄を知ってほしいと思われますか?

今は平和な時代ですよね。今みんなが安心して学校に通えるのは、先輩方の努力の礎があってこそ、ということは理解してほしいと思います。例えば、多士会館の2階には英霊顕彰の碑を祀ってあるんですよ。戦争で亡くなられた同窓生先輩方、今407柱のお名前が分かっています。年2回は慰霊祭を行っていますので、在校生や若い方々にも引き継いで伝えていってほしいですね。多士会館に来たら手を合わせて拝むとかね。そういう風に繋いでいきたいと思います。

多士会館は多士済々から名前を取っています。「多士済々の人材を生み出していく」という言葉が、済々黌を象徴していると思いますね。型にはまらず世界に雄飛していってほしいと思います。高校は、単に偏差値だけで測る、勉強だけしに来る場所ではないぞと。

そうですね。時間があるときはちょっと本校の歴史をひもといてみたりとか……。やっぱり、友人関係、絆は大切にしてほしいな。済々黌の良さは絆の強さ。済々黌ということで繋がれる面がありますから。なにかの縁で3年間を一緒に過ごすのだから、共有した時間をずっと大事にしてほしいと思いますね。

卒業後もご縁が続いていくんですよね。

卒業後、より深くなりますね。

それから、みなさん68、70、72歳とは思えない、ものすごくお若い! 特別な元気の源みたいなものが済々黌にはあるんでしょうか。

いろんな意味でやりたいようにやってきた、ということかな。適当に上手いこと、悪いこともしながら(笑) 叱られることもありましたけど、それはそれで先生との間に絆があったし。

バンカラで、一本下駄を履いて?

一本下駄、履いたりしてましたね。これからも、済々黌の生徒にはバンカラでありながら、元気を振るいながら、頑張ってほしいです!

後編【令和を生きる、私たちの三綱領。】へ続く

2022年11月11日に本サイトをオープンして約1ヶ月半後の12月25日。

佐々友房とその時代のことを教えていただきました渡辺京二さんが、老衰のため熊本市の自宅でお亡くなりになりました。92歳でした。

取材中も笑顔を見せておられましたが、特にサイトオープンの前日にこの記事をプリントアウトしてお持ちしたとき、一読して笑顔になられたお姿が忘れられません。

ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。

田中 泰延Tanaka Hironobu

ひろのぶと株式会社 代表取締役社長
1969年大阪生まれ。早稲田大学卒業後、
株式会社 電通でコピーライター・CMプランナーとして24年間勤務ののち退職、
2017年から「青年失業家」を名乗り、ライターとして活動を始める。
2019年、初の著書『読みたいことを、書けばいい。』(ダイヤモンド社)を上梓。
Amazon和書総合ベストセラー1位を記録し、16万部突破のベストセラーとなる。
2021年、著作第二弾となる『会って、話すこと。』(ダイヤモンド社)を刊行。
2020年、「本を書く人が、生活できる社会へ。」を掲げる出版社「ひろのぶと株式会社」を創業。

井関 麻子Iseki Asako

イセキ文書製作所 代表 1983年熊本生まれ。
早稲田大学卒業後、経済誌の記者、ホテル広報を経て2009年に独立。
執筆・編集を軸に、広告コピー、文化空間展示、ネーミング、広報サポートなど幅広く携わる。

田中 泰延Tanaka Hironobu

ひろのぶと株式会社 代表取締役社長
1969年大阪生まれ。早稲田大学卒業後、
株式会社 電通でコピーライター・CMプランナーとして24年間勤務ののち退職、
2017年から「青年失業家」を名乗り、ライターとして活動を始める。
2019年、初の著書『読みたいことを、書けばいい。』(ダイヤモンド社)を上梓。
Amazon和書総合ベストセラー1位を記録し、16万部突破のベストセラーとなる。
2021年、著作第二弾となる『会って、話すこと。』(ダイヤモンド社)を刊行。
2020年、「本を書く人が、生活できる社会へ。」を掲げる出版社「ひろのぶと株式会社」を創業。

井関 麻子Iseki Asako

イセキ文書製作所 代表 1983年熊本生まれ。
早稲田大学卒業後、経済誌の記者、ホテル広報を経て2009年に独立。
執筆・編集を軸に、広告コピー、文化空間展示、ネーミング、広報サポートなど幅広く携わる。

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