黌辞苑

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卒業生によるコラム

落ちこぼれ女子高生が見つけた居場所

2023.02.14

ライター:大木 萌子

イラストレーター:岩間 美咲希

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 恥の多い生涯を送って来た。

だが、それでも自分のことを「失格」だと思わずに今日まで楽しく生きてこれたのは、人生を楽しむ土台が済々黌で作られていたからなのかもしれない。

自由を謳歌した高校時代

 私が済々黌に入学したのは、ミレニアムイヤーの2000年。今年の3月で卒業して20年になり、記憶が曖昧な部分も多いのだが、140年の歴史の中では「若手」の部類に入る。

 高1の春、私は「自由」を謳歌していた。

親の顔色をうかがうことなく、自分の意思で行動できる。ちょうど携帯電話が普及しだした頃で、友達との連絡も中学の頃と比べて格段に取りやすくなった。携帯電話のアドレス帳に名前が多い=友達が多いというような錯覚から、他のクラスの友達にも積極的に声をかけて仲良くなった。プリクラが流行っており、街に行けば誰かがプリクラを撮っていて、そこで仲良くなるような出会い方もあった。

 入学してすぐにあった応援団の洗礼も5月にあった体育祭での演舞やフォークダンスも、「中学の時とは違う!高校生って大人だ!」と私をワクワクさせた。

 もともと勉強をコツコツやるタイプではなく、済々黌へも本番に強い性格のおかげで受かったようなもので、勉強という概念は中学に置いてきていた。

 クラスの女子会を開いて夜に遊んだり、仲の良いグループで小旅行に出かけたり、友人がファンだった歌手のコンサートに便乗したり、佐賀県で開催された「全国高等学校クイズ選手権」の予選に2年連続で出場したり。面白そうと思うものには飛びついて、ひたすら遊んでいた記憶がある。

 済々黌生を表す言葉に文武両道があるが、残念ながら私は文武どちらも道を踏み外していた。入学当初に興味本位で軽音楽部と男子ソフトテニス部にマネージャーとして所属してはみたものの、軽音楽部の方は「ボーカル志望」ということにしてカラオケボックスに入り浸り、ソフトテニス部は行ったり行かなかったりしていたせいで試合の日を教えてもらえず「今日こそ頑張るぞ」と休みの日にお茶を作ってコートに行ったら誰もいなかったことがあった。笑い話にしているが、よく怒られなかったものだ。当時の部員に謝りたい。

 勉強もひどい有様で、後ろから数えた方が早い順位をうろちょろしていた。不真面目だったエピソードは数多くあるが、2つだけ挙げておく。一つは授業中のおしゃべりをやめなかっため、温和な生物の先生に全身全霊のゲンコツをされたこと。垂直に頭の上に落ちてくる拳が、ずしんと重かったことは忘れられない。

 もう一つは高3の夏、課外授業に出たくないあまりに友達と立田山に登ったこと。勢いで出発したからか手ぶらで、汗だくになったのにハンカチもない。仕方ないのでトイレに設置してあったトイレットペーパーで拭いて大笑いした。「現実逃避」という言葉に映像をつけるとしたら、あの時の私たちがぴったりだ。

唯一頑張った高2の文化祭

 そんな不真面目な生徒だった私が、唯一何かを頑張ったことがあるとすれば、それは2年生のときの文化祭だ。

 それはこんなシーンから始まる。私は教壇に立ち、クラス全員を見渡している。

「今から私が話すことを、目を瞑って聞いてください」

仰々しく話し始めたのは、ある「呪われた洋館」の話。昔イギリス人が住んでいた洋館は、今では呪われていて、迷い込んだ人は404号室の鍵を見つけださないと出られない・・・そんな恥ずかしいくらいお粗末な内容を大真面目に話した。

 どう強引に持って行ったのかその企画は通り、私たち2年2組は「お化け屋敷」をすることになった。発案者の私がリーダーシップを発揮して大成功を収めた!と自慢したいところだが、覚えているのは「みんなが作ってくれた」ということだけだ。

 まず、学年でも目立って面白かった男子に、お化け屋敷に来てくれた人に最初に聞かせる話を担当してもらった。台本を渡すわけでもなく、イメージを伝えたのみでいわば丸投げしたのだが、ストーリーを組み立て、おどろおどろしい声でテープに吹き込んでくれた。それを聞いた瞬間に、お化け屋敷の成功を確信したと言っても過言ではない。

 また、突然動き出す人形役になった女子たちは、どう座っていたら怖いかを自分たちで考えてくれた。四つんばいで進む段ボールの通路を男子が協力して作ってくれた。クラスの女子のお父さんが好意で鏡に囲まれた「鏡の間」を作ってくれた。文化祭の直前に設置し最終日には割ってしまうという、贅沢な計画。そこには「スクリーム」という映画の仮面をつけたお化けが2人配置されたが、合わせ鏡の効果で何人もいるように見えた。

 他にも、親に協力してもらって兄の同級生の親のマネキン工場からマネキンを1体丸々譲ってもらった。手足は血糊を付けて通路に転がし、頭はゴール付近で天井から落ちてくる仕掛けにした。こうして、かなり本格的なお化け屋敷が完成した。

 

 どれも私だけの力ではなく、周りの人たちがどんどん進めてくれたからできたことだ。他の人のアイデアが掛け合わさることで化学反応がおきる楽しさを、この時に強く感じたからだろうか。今でも仕事をする上で、私は自分で発案したものでも人の意見をどんどん取り入れて変えていく。一人で考えたものよりいろんな人の意見が入った方がずっといいものができると、経験的に知っているからだ。

 私たちのお化け屋敷は当日長蛇の列ができ、その後の生徒の投票による人気ランキングで1位を獲得した。

恩師と呼べる先生

 聡明で親切な友達に囲まれて、楽しく過ごしていた3年間。楽しみすぎていたため、先生たちには好かれていなかったと想像する。ただそんな私にも、高校時代を思い出す上で欠かせない先生がいる。数学を担当していた大庭照次先生(通称:大庭っち)だ。

 勉強全般で落ちこぼれていた私だが、とりわけ数学は苦手で、全くついていけなかった。試験は、「勘」か「雰囲気」、もしくは元から高い国語力で「推理」する形で受けていたため、それらがどれも外れると散々な結果になった。一度50点満点の試験で6点を取ったときは、自分でも笑うしかなかった。

 それにもかかわらず大庭っちの授業は好きで、黒板にミミズのように這う数式を誰も解読できないときにも、私は読み解けて得意になっていた。全くできないのに一生懸命授業のノートを取る私に同情したのか、先生も可愛がってくれていた。なぜそう思うかというと、提出物を忘れた時など、生徒が一列に並んで出席簿で頭をゴツンとやられるのだが、他の人は1回なのに私だけ2回だったのだ。大庭っちの名誉のためにも、これは光栄なことだったと書き残したい。

 高2の終わり。私の母はいよいよ勉強しない私を見限って「この子は進学させても仕方ない。就職した方がいいのではないか」と本気で悩んでいた。そんな折、先生と保護者の交流会で大庭っちの近くに座った母はそのことを相談した。

大庭っちの返答は、

「あの子は高校では面倒みきれません。大学に行かせな駄目ですよ」。

力強い言葉に母の悩みは晴れ、私は福岡の大学に進学させてもらえた。私は大学で人が変わったように勉強をした。最前列で講義をうけ、試験の前には友達がノートを借りに来た。興味があること、自分で選んだことなら勉強できる人間だと大庭っちは見抜いていたのかもしれない。

 大学を卒業して10年間、編集の仕事についていたが、それも大学で国文学を専攻していたからこそ。人生を決定づけた一言・・・というと流石に持ち上げ過ぎか。

今に繋がっているもの

 ここまで書いてきたように、楽しみを優先し、勉強を疎かにしていた私。だが、実はそれだけではない。人間的に幼く配慮が足りなかったために、人間関係の失敗もたくさんした。

 40も手前になって、自慢できることではないこんな話を書いているのは、大人になった今、これらの経験を尊く思うようになったからだ。

 いま私は障害者の就労を支援する福祉施設で働いている。心身ともに無理なく働けるよう援助する中で痛感していることは、自分を知ることの大切さだ。

 自分にできることは何で、できないことは何か。自分が何を好きで、何にワクワクして、何があれば幸せで、どんな環境でなら活き活きと頑張れるか。それらが分かることで、就労後も長期的に活躍できる。自分を知る手立てとして有効なのが、自らやりたいこと選んで挑戦した経験や失敗した経験だ。

 思えば済々黌は私にとって、自分を知るための土台となる経験がたくさんできた場所だった。自分で選び、失敗したことが今の自分に繋がっていると感じる。

 また、賢く優しい友人たちは、私を尊重してくれ、違いを面白がってくれた。行きすぎた時には諌めてもくれた。自分の意見をしっかり持っていて、真っ直ぐに伝えてくれた。価値観がまだ柔らかかったあの時期に、そういった友人に出会えた意義は大きい。

 進学校なのだから、成績が悪ければ居場所がなくてもおかしくない。だが、私はあの中で居場所を見つけ、活き活きと楽しんだ。それが叶ったのが、済々黌という高校の懐の深さゆえだと今は思っている。

大木 萌子Moeko Ohki

2003年(平成15年)熊本県立済々黌高等学校卒業。新聞社の編成部で5年働いた後、出産を経て未就学児の母親向けのフリーペーパーを発行する会社に就職。5年の在籍のうち3年は編集長として誌面の改革に尽力する。 保育士資格の取得を機に福祉業界に興味を持ち、現在は先端IT人材を育てる就労移行支援事業所で主に発達障害者の支援をしている。 好きなものは猫、海、旅行、アートと古いもの。8歳児を育てるシングルマザー。将来の夢は「アート」や「表現」を通して多様性を認める世の中を作ること。

岩間 美咲希iwama misaki

2013(平成25)年 熊本県立済々黌高等学校卒業。熊本大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業後、教育委員会での勤務を経て2023(令和5)年NHK入局。現在名古屋放送局視聴者リレーションセンターにて従事。

大木 萌子Moeko Ohki

2003年(平成15年)熊本県立済々黌高等学校卒業。新聞社の編成部で5年働いた後、出産を経て未就学児の母親向けのフリーペーパーを発行する会社に就職。5年の在籍のうち3年は編集長として誌面の改革に尽力する。 保育士資格の取得を機に福祉業界に興味を持ち、現在は先端IT人材を育てる就労移行支援事業所で主に発達障害者の支援をしている。 好きなものは猫、海、旅行、アートと古いもの。8歳児を育てるシングルマザー。将来の夢は「アート」や「表現」を通して多様性を認める世の中を作ること。

岩間 美咲希iwama misaki

2013(平成25)年 熊本県立済々黌高等学校卒業。熊本大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業後、教育委員会での勤務を経て2023(令和5)年NHK入局。現在名古屋放送局視聴者リレーションセンターにて従事。

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