CATEGORY
卒業生によるコラム
母黌が、4年制高校だった頃の話
2022.11.01
ライター:藤田 勝久
イラストレーター:わたなべみきこ(渡邊幹子)
済々黌への志望動機
僕が、済々黌への進学希望をはっきり意識したのは確か中学3年生の夏ぐらい。40年前の事です。当時、僕のクラスでは担任の先生の趣味(指導)で学級新聞を作っていて、その企画の一環で熊本の高校特集号を組んだ事がありました。クラスメイトの各々が興味のある高校や兄姉が通う高校の取材を担当するという感じだったと思います。
そもそも済々黌は、言わずもがなですが熊本の中学生にとって、とてもまばゆい存在。刷り上がった特集号の中から、自分が担当した高校をそっちのけで済々黌の記事を何度も読み返しました。中でも印象に残ったのが、済々黌に通う親友のお兄さんから寄せられた言葉。確か、真面目にお勉強して現役でしっかり大学に行きたいなら某高校、部活も遊びも高校生活を思う存分楽しみたいなら浪人は当たり前だけど済々黌をおススメします、と言うような事が書かれていいました。
今から思うとかなりアホな中坊だけど、そんな価値観がカッコ良く思えたんですよね。ガリ勉は、ダサい(※全然ダサくないですよ)、的な。それに自分にとって大学進学なんて、まだまだイメージできない遠い未来の話しだったので、高校生活はもちろん楽しい方が良いに決まってる。そんな訳で、僕の済々黌に寄せる愛は一気に燃え上がりました。もちろん、済々黌の建学の精神、輝かしい歴史と伝統に魅せられた上での事です。とは言え、当時の成績は学年で約600人(市内1のマンモス校で14クラス)中、真ん中ぐらいだったと思います。紆余曲折を経て最終的には中3後半のラストスパートの努力が実り、なんとか嬉しい15の春を迎える事が出来ました。
4年制高校の1年時の思い出
1983(昭和58)年、憧れの済々黌の一員となった僕は、中学と同様にバスケ部へ入りました。2年生の先輩が1人だけだった事もあって、通常よりも早い時期から部活が中心の高校生活がスタートしました。顧問の先生は県下の高校バスケット界でも超厳しい指導で有名な母黌のOB。僕らも、しっかり鍛えて頂きました。ちなみに当時は恐怖の存在だったその顧問の先生とは、現在SNSで友達になっていて、時々、コメントのやりとりをさせてもらっています。もし、高校生の頃の僕にそんな話しをしても全く信じないだろうなあ。よく考えたらまったく想像もつかない未来を生きているのか。時の流れとテクノロジーの進化の偉大さを痛感します。
それはさておき、バスケには打ち込んでいたものの学業に関して言えば、高校での目標(大学進学など)を1ミリも抱いてなかったため、教科書はほとんど開く事もなく、教室の机の中で寂しい思いをさせていました。そんなふざけた事をやっていたら当然ですが、授業にはすぐに付いて行けなくなる。特に数学。中学生の頃は、得意で好きな科目だった事もあり、少し寂しい気持ちを感じていました。いや、だったら勉強しろよって話しですけどね。とにかく、済々黌の一員になれた事が嬉しくてしょうがなく、応援団の黌歌指導も、遠足も、恩賜記念大運動会も、とにかく黌内全てのイベントが刺激的で浮かれた日々を送っていたと思います。
そんな中、遂に済々黌で初の定期試験を迎えます。確か部活動は、3日前ぐらいから試験休みになったはずですが、ここで普段の遅れを取り戻すべく試験勉強に励むかと思えば、残念ながらそうではありませんでした。「やった!部活が休みだ、遊べる!」というとても間違った発想に基づき、同じ価値観を有する数人のクラスメイトと共に試験休みを別の意味で満喫してしまいました。結果、同学年10クラスで457〜458名中、確か451番か452番だったと思います。なかなか刺激的な順位でした。そうそう、割と最近この話しを5学年下の後輩とした際、「先輩、死後の世界にいたんですね」と、笑われました。「死後」つまり「45」で、学年順位が450番代の残念な生徒を指すそうなのですが、僕らの頃は多分無かった表現。いつから言い出しのか分かりませんが、うまいことをいいますね。そんなわけで僕は、成績不良の生徒という自我のブランドを確立させて、高校卒業までの日々を過ごす事になりました。ただ、ちょっぴり頑張ってだいたい300番代の後半ぐらいにはいた気がします。
そうこうしているうちに無事、期末試験も終わり夏休みに突入。つい最近知ったのですが、この夏休み期間中に学年で400番代の生徒は10日間もの補習があったようです。あの頃も母黌は、とても面倒見が良かったのですね。今更ながらですが、先生方に心より感謝致します。僕の夏休みは当然、バスケ部の練習三昧。3年生が引退して、新チームが始動。先にも述べましたが、2年生は新キャプテンの1人だけだったので、必然的に僕ら1年生が主体となるチーム作りに。とりわけ1年生大会を控えていた事もあり、恒例の阿蘇での合宿も熱がこもっていました。今から考えると高校での部活はあの頃が一番きつかったけど、一番楽しく、充実していたと思います。合宿後の練習試合の感触から、1年生大会は結構いけるんじゃないかと、内心かなりの自信を持ち始めていました。早くから1年生主体で、こんなにも密な練習をこなしてチーム作りを行えた高校は、他にはほとんどないはずだから。
そして待ち遠しかったトーナメントの抽選結果。しかしながら初戦の相手は、まさかの熊本高校。最も、あたりたくなかった相手。なぜかと言えば、この時の熊本高校には市内の各強豪中学から有名な選手が進学して、優勝候補の筆頭だったので。もちろん、そんなチームと対戦はしてみたいけど、出来ればもう少し勝ち進んでからの方が大会を楽しめるのに。と言うのが、正直な気持ちでした。それで弱気になってはいけないと、みんなで丸刈りに(※自主的です)なりました。なぜ、気合いを入れるために丸刈り(※自主的です)にするのかは謎ですが、よしやるぞと熱い気持ちになれた事は確かです。この後、高校最後の総体を含め、大会に臨むにあたって何度か丸刈り(※自主的です)にしたのですが、良く考えたら定期試験や実力テストでも気合い入れて丸刈りにしろという感じですよね。
全員クリクリ頭で迎えた1年生大会の熊高戦。とにかく食らいついて行こうと思っていたけど、ゲームが始まったら間に20点差を付けて、僕らがリード。予想もしなかった展開に中学時代から良く知る相手のメンバーが動揺してたいたのはもちろん、僕らもなんだか浮き足立ってしまいました。点を入れ過ぎて慌てるなんて経験は、あの時が最初で最後。その後、落ち着きを取り戻した熊高の反撃をくらって、前半終了時は逆転されましたがわずか2点差。最終的には、点差は忘れましたけど完敗でした。結局、熊高は危なげなく勝ち進み、決勝戦でも九学を圧倒。前評判通りの優勝を果たしました。僕らを倒したチームが優勝してくれた事は嬉しくもあり、一方で本当の文武両道を見せつけられた気がして、とても悔しく情け無い気持ちになったのを覚えています。ちなみにその時対戦した熊高のメンバー2人とは、4年後、早稲田の同好会で一緒にプレーする事になります。3年時に熊高の副主将を務めて現役で早稲田(法)に入学したNくんとは、今でも時々会うのですが、酔う度に「あの時(対済々黌戦)はマジで焦った、大会で一番やばいと思った試合だった」と言ってくれます。そうそう、彼の息子さんは済々黌に入学してバスケ部でした。感慨深い、バスケの縁です。
こうして高校1年生の夏は終わりましたが、学業に関しては相変わらず怠惰な日々を送る事になります。確かこの頃から、クラスで麻雀が流行り出したのかな。学生が麻雀にうつつを抜かす最後の時代だったと思います。麻雀は、学生を学業から遠ざけてしまう最悪の要因の一つ。今だと、スマホゲームになるんですかね。とにかく麻雀とバスケが中心の高校生活にしてしまい、定期試験では特に理数系の科目の赤点が当たり前になって行きました。それ以外は、特に大きな問題を起こす事もなかったと思います。文化祭や奈良・京都への修学旅行も、真面目に参加しました。
そして、高校生活も2年目に、と、その前に高校1年生最後のビッグイベントが待ち構えていました。クラスで2人だけが課せられた追試です。最も仲が良かったAくんと2人だけの敗者復活戦。これをクリアしないと2年生になれないわけで、もちろん留年する生徒は毎年います。どちらかと言えば、心配性な性格だと思うのですが、不思議な事に今振り返ってみても危機感を覚えた記憶がありません。追試を受けるにあたって、保護者(母親)が高校に呼び出されたのですが、母親の姿を遠くから見つけた僕は、呑気に手を振っていたようです。未だに母からは「Aくんのお母さんと済々黌に2人で呼び出されて、とても恥ずかしかった」と言われます。思えば、母親の初めての済々黌が、入学式でも卒業式でもなく、息子の追試のための呼び出しとは、少し親不孝でしたね。
ここまで書いていて、学業と進路に関する割と重要な出来事があったのは、1年生の時だったのを思い出しました。学年最後の実力テストの国語の科目が、学年1位の点数でした。クラスがちょっとざわついたと思います。そりゃそうですよね。常に300番台の中後半あたりを低空飛行していたのに1科目とは言え、いきなり学年トップなんですから。でもこれは、勉強をしなくても国語は出来たと言うような単純な話でもないので、取り敢えず誤解はしないでください。後から詳しく説明致します。
4年制高校の2年時の思い出
高校2年生は、中だるみの時期と言われていますが、僕もまさしくそうでした。バスケに関しても、通常であれば2年生の自分達が主体の新チームになるにも関わらず、むしろ1年生の頃より情熱は薄れていたと思います。理由は、有望な後輩たちが入部してきた事もあって、スタメンからは外れてしまい、試合への出場時間もどんどん減少していたためです。もちろんバスケは好きだし、練習は真面目に取り組んでいました。でも、ただそれだけ。授業も部活も何の目標も無いまま、なんとなく毎日を過ごしていたのでしょう。なので高校2年生の前半、中盤の記憶は、あんまりないんですよね。強いていうならば、僕は1年間教室の特等席である最前列が指定され、席替えを免除されていました。確か7列だったので、クラスの成績順で下から7番目までが、担任の先生の愛情によって最前列を与えられていたのです。この施策については、僕は個人的に良いアイデアだと今でも思っています。さすがに最前列だと居眠りはできませんからね。クラスでの下位セブンの成績順位がばれてしまう事に羞恥心を抱くようであれば、さらに効果的だったと思います。しかしながら僕はその様な繊細さが欠如していたので、担任の先生には申しわけなかったです。でも、実際のところ、200番台の後半ぐらいを時々取れるぐらいには成績が上がってきていました。おかげさまで、追試は受けずに3年生に進級できました。他に2年生の学校生活で印象に残っているのは、文化祭をクラスの全員が一体となって取り組んだ事ぐらいでしょうか。ただ、何をやったかはあまり記憶が定かじゃないですけど。
ところで、3年生へ進級するにあたって私大文系クラスを選択しているため、2年生の後半にはうっすらと、東京の大学に行きたいな、できれば早稲田に行きたいなと考え始めていたようです。なぜかというと、学内で受けた全国模試で適当に書いた有名私立大学(確か東京六大学のどこか)の合格判定が、Cだったから。当時の成績の僕からすると、雲の上の存在のような有名私立大学の合格判定がCと言うのは、まさに青天の霹靂。50%も合格率があるなら、頑張ったらどうにかなるかもと単純に思ったわけです。で、さらにアホなのですが、この時初めて早稲田も含めた有名私立大学の文系学部はだいたい3教科で受験できる事を知りました。恥ずかしながら、すごい大発見をした気持ちになって「早稲田ってたった3教科で受験できるんだよ。すげーお得じゃない?」と、何がお得なのかは不明ですが、興奮しながらクラスメイトに言って回った気がします。とにかく国語・英語・日本史の3教科で、早稲田を受験できることは、特に日本史が好きな僕にとって夢のように感じられたのだと思います。まあ冷静に考えたら教科が少ない分、難易度が上がるんですけどアホだから気づかない。でも、受験生はそれで良いのかも知れないです。目標に関しては、アホなぐらいポジティブに。無理だとかなんだとかの周りの雑音は気にする必要はないのです。努力するのは自分自身なのだから、行きたい大学を目指した方が健全。
地方の進学校はどこでもそうですが、進路指導に関しては国立大学至上主義。僕はそれで良いと思っていますし、むしろそうあるべきだと思っています。ただ当時、進路指導で私大文系クラスの希望を伝えたら、もう数学から逃げるのかと言われてしまい、それはちょっと違うんだけどなあと感じた事も確かです。僕の中では早稲田に行きたい気持ちが高まっていたので、数学から逃げるのではなく積極的な気持ちで3教科に集中したいのが理由だったから。とは言え、当時の成績からすれば僕の考えには説得力も無く、先生からそう言われてしまうのも至極当然の事でした。
ここで話はちょっとそれますが、大学の経済系の学部は専門課程で数学的要素が必要になります。なので私大専願で経済系の学部を志望する方は、全く数学が出来ないと結局大学入学後に苦労することは念頭に置いてください。さらに今後、数学の重要性はますます高まってくると思います。早稲田の看板学部である政経学部が、2021年の入試から数学を必須にしましたよね。受験業界にはかなりの衝撃を与えましたが、これは、その現れの一つです。ちなみに入学試験に数学必須を導入した当時の早大政経学部長で現早大副総長は、大変お世話になった方のお兄様なのですが、早稲田ではなく一橋大学の出身。大きな変革を成すには、やはり外部の血が必要なのだなと感心したものです。
話を元に戻すと、数学から逃げたわけじゃないけど、数学から解放されたうえで早大進学も可能だという希望の灯りを見つけた気でいた僕は、済々黌での最後の1年間を有意義に過ごすべく私大文系クラスの3年生に進級します。冷静に考えるとこの時点では、希望と言うよりも無謀でしたけど。
4年制高校の3年時の思い出
僕の当時の成績を考えると、とても失礼な事を承知で言いますが、確かに私大文系クラス(1・2組)は全科目の学年順位で測るとあまり芳しくない成績の生徒が集っていました。今、そのようなクラス分けがなされているのかどうかは知りませんが、当時は教師陣も他のクラスの生徒からもちょっと下に見られていたような気がします。もちろん、僕みたいな思い付きではなく、早い時期から志望校を私大に絞って専願クラスを望んだ人も中にはいました。なので、例えば1つの組は早慶上進学クラス、もう一つの組は関関同立進学クラスとかにした方が、生徒のモチベーションも上がるのになあと考えていました。かなり、図々しいですが。でも、生徒の自覚もかなり変わってくると思うんですよね。まあ県立高校が予備校みたいな真似は難しいのでしょうけど、現実的には進学校としての実績を残す必要があるので、もっと合理的でも良いのではと思います。
それはそれとして、ただの私大文系専願クラスの僕は、数学から逃れるのではなく積極的な気持ちで3教科に集中したいという目標はどこへやら、現役の受験生という緊張感は中々持てないままでした。高校最後の恩賜記念大運動会での応援団に参加したので、演舞の練習には集中しましたけど。高校総体の県予選が終わり、バスケ部も引退。書いていて愕然としたのですが、高校生活で最も時間を費やしたバスケの最後の大会をあまり覚えていません。それはやはり、スタメンではなかったからです。と言うより、ほとんど試合も出られなかったんじゃないかな。今思えば、何がなんでもレギュラーを奪取する気概を持たないまま、漫然と練習に参加していました。完全に受け身の姿勢。高校生の現役生活では学業もそうですが、大きく悔いが残る事です。
新学年になって初めての進路指導で志望校を問われた際、図々しい僕もさすがに早稲田大学とは言えず、少しだけ遠慮して他の有名私大の名前を笑顔で口にしました。「そうか、頑張れよ」と言う、励ましのお言葉を期待していたのですが、「ふざけるな、真面目に考えろ」と言う、目が覚めるようなありがたいお言葉を頂戴致しました。「お前が今の偏差値で行ける大学はここぐらいだ」と、先生が指し示した偏差値ランク順の大学リストを見ると、遠い南の島の聞いた事もないような私立大学でした。いやそれは、全教科の偏差値で見るとそうですけど、受験科目の3教科ならもうちょっと上ではと言いかけましたが、話がややこしくなりそうなので黙っていました。少し悔しかったと思います。しかしながらバスケ部も引退したので、この悔しさをバネにして100%受験生モードに切り替えたかと言うとそうでもなく、勉強量は多少増えたものの悪友たちとの麻雀の回数も増えました。夏休みは、よくあるパターンですが親には図書館へ勉強しに行くと言って出かけ、雀荘になっていたIくんの家に入り浸っていました。いつもIくんの親御さんが帰宅される前に退散するのですが、一度、鉢合わせてしまってすごく嫌な顔をされたのを覚えています。思い出すと、今でも心が痛みます。現役受験生の貴重な夏休みは、こんな感じで無駄に流れて行きました。※Iくんも浪人してからは僕と同様に麻雀仲間とは縁を切り、早大理工学部に合格。
秋を迎えて文化祭では仲間とステージに立ち、高校最後の盛大な思い出づくりを行なった後、僕はやっと正しい受験生になりました。悠長に基礎からやっている時間はないので、早慶の合格体験記(多分、「私の早慶大合格作戦 エール出版」)に書かれている参考書や問題集を片っぱしから購入して、受験勉強に取り組みました。そして、志望校の赤本と青本。後から後悔したのですが、なぜか肝心な時に怯んでしまい早稲田は比較的難易度が易しい文系の学部を第一志望にして、東京六大学から二つの大学の文学部を第二志望にして願書を提出。これは本当にブレた事をしたと思います。現役でも頑張れば合格するかも知れないと言うポジティブな気持ちより、現役は腕試しなので本番は浪人してからという意味不明な逃げの気持ちが勝ってしまったんですよね。
正しい現役受験生の日々を数ヶ月だけ過ごして、遂に受験シーズンを迎えます。僕は、それ程仲が良かったわけでもないクラスメイトのNくんと、今は廃止された寝台特急はやぶさで上京します。なぜ寝台特急かと言うと、なんとなく地方の学生が東京を目指す時は、寝台列車と言うイメージを持っていたからです。宿泊先は、代々木の国立オリンピック記念青少年センター。安いけど、全国から集う受験生と相部屋でした。
で、受験の結果を発表しますともちろん3大学、3学部とも不合格。やはり付け焼き刃では、太刀打ちできるはずもなく。でも、とても嬉しい事が一つありました。思わず涙ぐむほど感動的な。受験日の前夜、宿泊先の事務所から呼び出されたので行ってみると、電報を手渡されました。届けられたのは、進路指導の際に「ふざけるな、真面目に考えろ!」と言ってくれた先生から、駄目な教え子へ向けた励ましの言葉でした。
4年制高校の4年時の思い出
先生からの暖かい応援に応えることが出来ず、僕は、浪人生となりました。当時、熊本市にある大学受験の予備校は2校だけで、その大半を占めるのは母黌の卒業生と聞いていました。見慣れた顔ぶれだと、遊びの誘惑に負けてしまうかも知れない。かと言って、経済的に福岡や東京の予備校に行く事は不可能。よって僕は、自宅で浪人、つまり宅浪する事を決めました。受験対策の参考書や問題集は、前述の早慶の合格体験記に記載されていた物を中心に。そして過去問対策に受験する予定の早大政経・法・商・教育の赤本と青本。そさらに進研ゼミの当時あった予備校生向けの通信講座。通信講座と言っても、現在のデジタル化されたものではないですよ。定期的に送られてくる課題集を解いて提出すると、添削されて戻ってくるという紙ベースのアナログ方式。自分で作成した1週間の受験勉強のタイムスケジュールは、高校の授業よりハードな内容でした。
ここでちょっと話しを過去に戻しますが、1年生時の実力テストの国語での学年トップの件。実を言うと僕が宅浪を選んだ最大の理由は、国語と日本史に関して言えば模試などの結果が、そこそこのレベルにあったからです。あとは英語を頑張れば良いだけ(※簡単に考えていましたが、本当はそれが難しかった)と、思っていました。さんざん、高校時代は勉強してなかったと書いているのにどう言う事だと思いますよね。確かに高校の教室、教科書での勉強はしてなかったのですが(そのため定期試験での順位は低くなる)、小学4年生の頃ぐらいから読書と歴史が好きだったので、現代文も古文も日本史も、知識自体のベースが自然と身に付いていたようです。特に僕にとって日本史は、本格的な受験対策の勉強も過去問を解くのも趣味みたいなもので、まったく苦になりませんでした。なあんだ。と、思われるかも知れませんが、小学4年生から読書や歴史を覚えるために費やした時間を試験勉強の時間としてカウントすれば、数年間の長きに渡って受験に取り組んでいたとも言えますよね。
宅浪の成果を計るためには、代ゼミや駿台の全国模試を利用していました。予備校に通わなくても、申し込めば市内に設置された会場で受験できました。模試の成績は、ほぼ順調に上がって行ったと思います。一人で不安だったかと言うと、意外と平気でした。そもそも部屋に籠って読書するのが好きなインドア派でしたから。それに色々と心配してくれる友達もいて、特にバスケ部の赤点仲間で母黌を卒業後、市役所に勤務していたHくんは時々気分転換のためとドライブに誘ってくれたり、食事をご馳走してくれたりしていました。馬鹿なのに早稲田に受かるはずがないと笑う人も多かった中、ずっと応援してくれて、合格を報告した時は自分のことのように喜んでくれました。先に空へ旅立ってしまったけど、今でも心から感謝しています。また、一緒に浪人して東京の大学へ行こうと誓っていたのに福岡の難関私大に現役合格で進学した別の友人Aくん(※1年時に一緒に追試を受けたAくんです)は、受験で上京する前に太宰府天満宮のお守りを届けてくれました。そして1年生の時に同じクラスで、早稲田の政経に現役で入学したAくんは、励ましの手紙とお守りの代わりに僕が頼んだ現役早大生の彼が使っている鉛筆(受験の際に使用しました)を送ってくれました。 そんな優しい友人たちの応援のおかげもあり、僕は早稲大学商学部に合格して無事4年制高校も卒業することが出来ました。実は早稲田の4学部連続受験の前日に風邪をひいてしまい、特に前半戦はあまりの具合の悪さに退場しようかなと思った程で、2浪目も覚悟していました。風邪の原因は、宿泊施設の浴場が建物の外にあって体が冷えたことだと思います。体調管理は、本当に重要。そうそう、母黌を訪れ、電報で教え子を励ましてくれた先生に1年遅れで合格の報告をした際、とても喜んでくれたのと同時にすごく特殊なケース(在学時の成績不良と宅浪)なので、「教師としてはどう捉えていいのやら戸惑う」と、苦笑いされていました。
母黌の後輩の皆さまへ
このコラムを書いている途中、母黌のWebサイトでスクールライフの年間主要行事予定表を見たのですが、僕らの頃よりも学習指導に関しては、かなり手厚くなっているなと感じました。生徒の管理体制の強化で、自由な黌風が損なわれていると言った声もチラホラあると耳にした事があります。しかしながら、個人的にはとても良い環境になってるんだなと思います。先生方を心配させていた自分の在学時代の事をすごく棚に上げますが、学生の本分は学業。ましてや母黌は、全国でも有数の稀有な歴史と伝統を持つ、熊本県が誇る進学校。学業に関して言えば、進学校と名乗るに相応しい実績を上げ続けるのは、済々黌に学ぶ者の責任です。それは過去に対しても、未来に対しても。僕のみっともない4年間を長々と綴りましたが、伝えたかったのは、僕らの頃の様に浪人して当たり前、自虐的に言う4年制高校をちょっとカッコいいと思っていたような価値観は、二度と流行らせてはならないと言う事です。自由な黌風とは、学業そっちのけで遊びを謳歌する事ではありませんよね。高校の青春は一度切りだからと遊びたくなる気持ちも理解出来ますが、同じく貴重な10代最後の1年、下手するとハタチの1年も勉強だけになってしまう可能性をお忘れなきように。在黌生時代、文も武も情けないくらい中途半端に終わり、真の意味の自由な黌風を吹かせられなかったOBより、自戒を込めて。
ライター
藤田 勝久
1986(昭和61)年 熊本県立済々黌高等学校卒業 / 1987(昭和62)年 一浪を経て早稲田大学商学部入学 / 1991(平成3)年 株式会社リクルート入社 / 1999(平成11)年 東京コピーライターズクラブ入会 / 1999(平成11)年にリクルートを退社後、外資系広告代理店を経て、フリーランスのコピーライターとして独立。 手がけてきた主なクライアント:Apple、adidas、NISSAN、Starbucks、PEUGEOTなど 主な仕事:adidasのタグライン 「不可能」なんて、ありえない。
わたなべみきこ(渡邊幹子)
イラストレーター・デザイナー。平成8年卒業、金沢美術工芸大学 油画専攻中退。 事業会社・制作会社でのデザイナー職を経て、2011年東京在住時にフリーランスに。web・グラフィックデザインと併行して、書籍、広告、パッケージ、店舗装飾などにイラストを提供。現在は熊本市在住。二児の母。
ライター
藤田 勝久
1986(昭和61)年 熊本県立済々黌高等学校卒業 / 1987(昭和62)年 一浪を経て早稲田大学商学部入学 / 1991(平成3)年 株式会社リクルート入社 / 1999(平成11)年 東京コピーライターズクラブ入会 / 1999(平成11)年にリクルートを退社後、外資系広告代理店を経て、フリーランスのコピーライターとして独立。 手がけてきた主なクライアント:Apple、adidas、NISSAN、Starbucks、PEUGEOTなど 主な仕事:adidasのタグライン 「不可能」なんて、ありえない。
わたなべみきこ(渡邊幹子)
イラストレーター・デザイナー。平成8年卒業、金沢美術工芸大学 油画専攻中退。 事業会社・制作会社でのデザイナー職を経て、2011年東京在住時にフリーランスに。web・グラフィックデザインと併行して、書籍、広告、パッケージ、店舗装飾などにイラストを提供。現在は熊本市在住。二児の母。
140th anniversary special column
140周年特別記念寄稿
Column by graduate