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卒業生によるコラム
九州大会11年連続出場のきっかけは意外なところに!?
2022.09.20
ライター:中村 香織
イラストレーター:伊藤(旧姓宮野)雅美
目次
- 1 合格発表の翌日から入部!初心者が、なぜ!? 〜1978年①〜
- 2 『フィンランディア』で運命を変えられた人々 〜1978年②〜
- 3 黒葛原さんの指揮の魅力とは? 〜1979年〜
- 4 先輩命令は絶対!? 名門校の部長をうならせた1年生の偉業 〜1976年〜
- 5 指揮者・黒葛原潔さんの誕生秘話 〜1977年①〜
- 6 指揮者もいないし、楽譜がない!! どうする!? 〜1977年②〜
- 7 再び九州大会に進出!そして甲子園出場! 〜1979年〜
- 8 自由曲が大どんでん返し! 済々黌サウンドとは!? 〜1980年①〜
- 9 吹奏楽部を脱退! ガンダムつながりで漫画研究会へ 〜1980年②〜
- 10 やっぱり合奏が好き! まさかのフィンガリング地獄 〜1981年〜
- 11 ラッパの音が良くなる!? 恐怖のラー油99杯事件! 〜1982年①〜
- 12 沖縄での西部大会。台風で、飛行機が飛ばない!? 〜1982年②〜
- 13 とにかく県外に旅行したい。じゃ総文に出ようぜ! 〜1983年〜
- 14 吹奏楽部が結ぶ不思議なご縁 〜1983年〜
- 15 人生を変える出会いがある済々黌吹奏楽部
- 16 黒葛原潔さん指揮による西部大会・九州大会出場の軌跡
済々黌吹奏楽部って、どんなイメージですか。私には憧れの的であり、そこで演奏した日々は夢のようでした。今回140周年記念で吹奏楽部のことを調べてみたら、今まで知らなかった「吹奏楽部秘話」を色々知ることができたんです。私が済々黌吹奏楽部を志望するきっかけとなった演奏も、先輩方の努力とチームワークが結実したものでした。長年指揮をしてくださった黒葛原潔(つづらばら・きよし)さんとの出会いなど、皆さんそれぞれの思い出があるでしょうが、私が見聞きしたこと、体験したことの一部をご紹介します。
合格発表の翌日から入部!初心者が、なぜ!? 〜1978年①〜
済々黌吹奏楽部のOBOGの皆さんなら、合格発表の翌日から中学の制服を着て「入部させてください!」と言いに行った人も多いのではないでしょうか。私もそうでした。現在では中学生の練習は禁止だそうです。もし事故などがあったら誰も責任を取れないから。昭和は、大らかな時代でしたね。
入学前に来るような人は、吹奏楽の経験者ばかり。しかし、私は初心者。楽器も持っていません。
そんな私が済々黌吹奏楽部を目指したきっかけは、1978(昭和53)年夏に行われた吹奏楽コンクール熊本県予選。自由曲『交響詩 フィンランディア』で、済々黌は西部大会(現在の九州大会・以下九州大会と表記)出場を決めたのです!最優秀賞は常連の玉名女子高。熊本市内の高校で九州大会へコマを進めた済々黌に、中学3年の私と友人たちは憧れました。
友人と言っても、私以外は名門吹奏楽部のある京陵中学校(指揮は草野格先生)。私を含め、花園小学校では万谷雄一先生指導のもと、県の器楽合奏コンクールで金賞や最優秀賞を頂くような器楽部に所属していました。私はアコーディオンを担当していました。
ところが中学に進む段になって私だけが他地域に引っ越し、吹奏楽部のない別の中学へ。吹奏楽コンクール熊本県大会のときには、毎年京陵中のみんなの応援に行っていました。 高校受験を意識する3年生の夏、中学と高校の県大会が同じ日に開催され、熊本市民会館(現:市民会館シアーズホーム夢ホール)で「金賞、済々黌高校!」と発表されたのを目当たりに。その場で、京陵中の仲間と「済々黌に行って、また合奏しよう!」と固く誓い合ったのでした。
5月の体育祭と7月のコンクールが終われば、京陵中の仲間と会う機会はありません。遠く離れて過ごすなかで、私は知らなかったのです。あれだけ盛り上がった花園小の仲間がみんな、済々黌受験をやめたことを!
私は「済々黌に入れば、また友達と一緒にいられる!」と信じ、勉強に励みました。三者面談で担任の先生から「偏差値的に済々黌は難しいから第一高校にしたら?」と言われても「先生、第一高校には吹奏楽部がないんです。済々黌を受けさせてください!」と食い下がりました。母も「もし不合格でも先生の責任は問いませんから、受験するだけさせてやってください」。責任不問とわかったとたん、先生は「よし、済々黌に行け! おまえならきっと受かる!」「ありがとうございます‼」
そして私は、“無謀なチャレンジャー”として職員室の有名人となりました。見知らぬ先生がたさえも、私の名札を見て「君が、そうかー。がんばれ!」と応援してくださいました。ある朝登校すると、担任から、こう言われました。「先生には見える。おまえは、『合格』というゴールに向かって歩いているぞ! このまま進め!」「はい!」
大人っていい加減ですよね。でも中学生は、先生が太鼓判を押してくださるんだから大丈夫、と受験に挑みました。
そして、みごと合格! ところが小学校で一番仲が良かった友人に電話をすると、お父様から「熊高以外ダメ」と言われ、泣く泣く従ったそうです。別の二人は熊本商科大学付属高校(現在の熊本学園大学付属高校)へ。「えーっ、吹奏楽部がないのに?」と驚きました(のちに、この二人は吹奏楽部を創部)。中学3年の夏に盛り上がった仲間の誰一人、済々黌を受験していないことがわかり、力が抜けました。
ですが、物は考えようです。もし私が京陵中吹奏楽部にいたら、「石にかじりついてでも済々黌に入る!」という鉄の意志は持てなかったでしょう。
そんな私に熊本高校吹奏楽部に行く彼女が「違う小学校だけど、京陵中から済々黌に行く子がいるから、一緒に入部しに行ったら?」と紹介してくれました。
おかげで合格発表の翌日、その子に連れられ、中学の制服のままで初心者ながらも済々黌吹奏楽部の門を叩くことができたのです。私が希望するフルートパートに偶然にも同じ中学の先輩がおられ、教えていただけることになりました。
「交響詩フィンランディア」が契機となり、私一人が済々黌にやって来てしまったわけですが、そこはまた新しい出会いにあふれた場所でした。
『フィンランディア』で運命を変えられた人々 〜1978年②〜
1978(昭和53)年の「交響詩フィンランディア」で運命を変えられたのは、私だけではありませんでした。ここでは2022(令和4)年3月まで小学校の校長先生をされ、2020(令和2)年~2021(令和3)年度は熊本県器楽合奏研究会の会長も務められたMK先輩にスポットを当てます。
済々黌吹奏楽部へ入部されたのは、1977(昭和52)年。後に11年連続九州大会出場を果たす黒葛原潔(つづらばら・きよし)さんが、初めて指揮をしてくださった年です。以下、黒葛原さんのことは「ヅラさん」と愛称で表記しますね。
自由曲は『ハンガリー狂詩曲 第二番』でしたが、MK先輩は「初心者で、サックスをあまり上手く吹くことができませんでした。しかし黒葛原さんの指揮に吸い込まれるような感覚で、精一杯演奏した」そうです。残念ながら、九州大会へは出場できませんでした。
そして翌1978(昭和53)年の自由曲は、『交響詩 フィンランディア』。先輩後輩みんな仲良く、和気あいあいと楽しい雰囲気の中で、全員で必死に練習し、みごと西部大会出場という栄冠を勝ち得ました。それ以来、『フィンランディア』は、MK先輩にとって特別な楽曲となったのです。
そのMK先輩は、1980(昭和55)年に済々黌を卒業され、熊大を出て教員となられました。1984(昭和59)年の初任は、天草の小学校。教師としての在り方に悩みつつも、4年目には「とにかく今、自分にできることを必死でやろう!」と覚悟を決めることに。そして5年生の子どもたちと共に取り組んだのが、あの『交響詩 フィンランディア』です。アコーディオン主体のリード合奏でしたが、「高校2年生の時に感じた、自分なりの『フィンランディア』を表現してみよう」と、9年前のヅラさんの姿をイメージしながら、指揮をされました。
MK先輩は1987(昭和62)年当時を振り返り、こう語られます。「初めて合奏の指導に取り組む私にとっても、また、それまでクラシック曲に縁のなかった子どもたちにとっても、本気で臨む『フィンランディア』は新鮮であり、かつ困難な挑戦でした」。しかし努力は実を結びます。指揮者と子どもたちが一体となった演奏が評価され、町の代表として郡市の演奏会への出場することができたのです。「子どもたちと喜びを分かち合った感動は、今でも忘れません」。これはMK先輩に限らず、子どもたちを指導された経験のあるかたは、皆さんが抱く感想でしょう。
その後も校内の音楽会やコンクール、老人ホームでの訪問演奏など、「音楽を通じて自分に何ができるのか」と自問自答しながら、長年、合奏指導をして来られました。そんな中でMT少年との出会いがありました。少年はMK先生の指揮を見て、のちに指揮者を目指します。その少年が憧れていたのは、ヅラさんを追いかけていたMK先輩の姿だったのです。少年はMK先輩を通して、ヅラさんを見ていたのでしょう。
そして今、大人になったMTさんは指揮者となられています。バンドは、なんと済々黌吹奏楽部の卒業生を中心とした「碧落アンサンブル」。ご縁がつながっていくのを感じずにはいられません。
黒葛原さんの指揮の魅力とは? 〜1979年〜
MK先輩以外にも、済々黌吹奏楽部の指揮もされたYH先輩(55年卒)はじめ、多くのOBOGが、小中高校等各団体で合奏指導に携わっておられます。各地で、ヅラさんのDNAが受け継がれていっているのではないでしょうか。
高校時代、ヅラさんの指揮で演奏するのは、無上の喜びでした。たとえば曲の中でフルートが目立つ部分の演奏をやり終えた時、「フルートグッジョブ!」というように、左手でOKサイン。右手の指揮棒はもう金管の演奏のために先に進んでいるのですが、フルートの皆に向けて、満面の笑み。うんうんと満足げに頷かれる姿を見て、「やったー!」と喜んでいました。
合奏時にも妥協するわけではなく、納得いくまで何度もやり直すのですが、叱られたことはありません。ヅラさんの「こういうふうに」という指示に、全力で応えようとしました。OKが出た時の喜びは何物にも代えがたく、中毒性があるような気さえします。
ヅラさんは、意識的なのかどうかわかりませんが、生徒の能力を最大限引き出してくださったと思います。
そんなヅラさんの指揮で演奏するのもこれが最後、という日が2022(令和4)年2月27日。創立40周年記念の碧落アンサンブル第30回定期演奏会です。熊本県立劇場で演奏された曲目は、『大序曲1812年』。私の高校時代にも演奏した、大好きな曲です。九州外からわざわざ最後の指揮を受けに来る同級生に「出演しないの?」と聞かれましたが、もう私は音楽から遠ざかっています。
定演当日は仕事で聴きに行くこともできませんでしたが、ヅラさんはステージで、こうおっしゃったそうです。「自分がこれまでやって来たことは、単に音楽を教えるということではありません。その人たちが自分と過ごす時間の中で何かを感じ、それをまた次の誰かに伝えて行ってくれれば、嬉しいですね」と。
先輩命令は絶対!? 名門校の部長をうならせた1年生の偉業 〜1976年〜
ではここで、ヅラさんが済々黌吹奏楽部と関わるきっかけになったかもしれない、ちょっと面白いエピソードをご紹介します。
1976(昭和51)年の吹奏楽コンクール熊本県大会において、課題曲『即興曲』、自由曲『組曲《惑星》より 木星』で、済々黌吹奏楽部は初めて銀賞を受賞。今まで銅賞続きだったので、みんな大喜びです。さらに九州大会は、たまたま熊本での開催だったため、「ご当地は1校多く出場可」というラッキーに恵まれました。県で銀賞にも関わらず、九州大会初出場。そこでも銀賞を獲得しました。長年指揮をして来てくださった岩永頌二先生のご指導の賜物です。
当時、サックスのMS先輩(以下、M先輩)は、熊本電気鉄道菊池線で済々黌の最寄り駅である黒髪町駅まで通学するとき、九州学院高校のXさん(のちに吹奏楽部長)と、よく同じ電車に乗り合わせていました。
済々健児の見本のように豪快なM先輩。面倒見がよくて、後輩からも慕われています。2年生のころ、いつものように部活の後で、1年生のトランペットIHさん(以下Iさん)はM先輩をお見送りするために、黒髪町駅へ。電車には、九州学院のXさんがおられました。
ホームからM先輩に「失礼します!」とおじぎする1年生に向かい、M先輩はドアが閉まる瞬間、「北熊本」と一言。
それは「次の北熊本駅まで自転車で行き、ホームで挨拶しろ!」という意味です。Iさんは、急いで自転車で先回り。
電車が北熊本駅に着き、ホームでドアがプシューッと開くと、そこにはIさんの姿が。M先輩に向かって再び「失礼します!」。九学のXさんは「えっ、さっきと同じ後輩!?」とびっくり!
さらにM先輩が「亀井」と言うと、また亀井駅まで自転車こぎ。北熊本駅から亀井駅までの道はまだましですが、「八景水谷駅」と言われるとダラダラとした登り坂で、自転車では相当キツいものがあります。Iさんは途中で電車と並走することになりますが、まさか遅れるわけにはいきません。ドアが開く前にホームで部長をお待ちするのが、1年生の使命なのです。
必死でこぎ続け、無事、八景水谷駅に付いたIさんは、開いたドアからM先輩に向かって、「失礼します!」
すると次は「堀川」。八景水谷駅から堀川駅までは、もうシャレにならないほどの上り坂。しかし堀川駅でもおじぎをする1年生の姿に、Xさんは思わず「すげ~‼」と、感嘆の声。九州学院と言えば、当時、熊本市内高校の吹奏楽部での名門校。当時を振り返ったM先輩いわく、「当時の九学は、万年銅賞だった済々黌とは格が違うと俺は感じていたもんね。そのX君の前で、Iはよくやってくれたと思うよ」。
Iさん、すばらしいです。自宅とは逆方向に走り、見事に済々黌の先輩後輩の絆の深さを示してくださいましたね!
「そうね、理不尽なまでの絆をね。その日だけでなく、何回も見送りに来てくれたよ。いきなり『亀井』と指定したり。今思うと、俺って悪人よね~(笑)。でも、その九学のX君が部長になって、ヅラさんを紹介してもらったとたいね。Iが一生懸命がんばってくれたおかげで、X君が『済々黌はすごい!』と思って協力してくれたのかもしれん」。
M先輩、Iさん(私から見れば先輩ですが)、そして九学の部長さん、ありがとうございます。M先輩の人情味あふれるお人柄だからこそ、後輩も付いてきたのだと思います。
現代ではあまり見られない光景かもしれませんが、先輩と後輩でちょっとしたいたずらをしかけてみようという、仲の良さを象徴するエピソードですね。
指揮者・黒葛原潔さんの誕生秘話 〜1977年①〜
九州大会で銅賞を受賞し、部員はヤル気になったものの、翌1977(昭和52)年春、音楽の岩永先生が他校へ転勤され、黌内に合奏指導のできる先生は不在。どなたかに指揮をお願いしたくても、全くツテがない状態でした。そこで新3年生となったM部長は、電車通学仲間の九州学院吹奏楽部のX部長に「(九学で指揮をされている)白川先生に、指揮者を紹介してくださるように、頼んでみてくれんね」と依頼されました。
すると白川先生は、「熊本交響楽団の黒葛原君が適任じゃない?」と、ヅラさん(当時20代)のご自宅のお電話番号を教えてくださいました。
するとM部長は直談判しようと、いきなりご自宅にお電話をかけたそうです。当時を振り返って、M先輩は「社会人になった今となって思うと、ご自宅にお電話するなんて、ご無礼な話よね。でも高校生で、他にどうしようもなかったとたいね」
緊張して握る受話器の向こうから聞こえて来たのは奥様の声。「済々黌吹奏楽部の部長で、Mと申します。黒葛原さんに指揮をお願したいのですが……」。すると「あら、私も済々黌なの。私からも言っておくから、明日もう一度かけて」。意外なところでOGの援護射撃を得られそうです。
翌日、改めてお電話すると潔さんご本人が出られ、「一度、楽譜を見せて」という流れに。
後日、M先輩はヅラさんの職場である熊本市役所へ楽譜を持参し、正式に依頼。有り難いことに、指揮を引き受けていただけたのです。
ヅラさんは、もともと済々黌と同じくバンカラな校風で知られる福岡県立嘉穂高校のご出身。九州大会の常連でもある嘉穂高吹奏楽部ではホルンを演奏し、マーチングバンドの先頭になった経験もおありです。熊本大学では、熊大フィルハーモニーオーケストラの指揮もされていました。
当時を振り返って、ヅラさんは「指揮の依頼があったとき、『今年度、音楽の先生がいらっしゃいません。あと3年くらいで、また音楽の先生が赴任して来られるはずだから、その間お願いします』と。吹奏楽部の指導なら、できるのではないかと思って引き受けたんだけどね」。音楽専科の先生の赴任は、その12年後でした。
指揮者もいないし、楽譜がない!! どうする!? 〜1977年②〜
指揮者が決まらない時期に起きた、当時の済々黌らしいエピソードをひとつ。1977(昭和52)年は、自由曲に『ハンガリー狂詩曲第2番』を選んだのですが、当時、楽譜はレンタルも販売もされていません。他校から貸していただこうにも、県内どこをあたっても見つかりませんでした。
当時の部員で知恵を絞りました。九州吹奏楽連盟の記念誌を引っ張り出し、過去の九州大会での演奏曲目一覧をしらみつぶしにチェック。10年ほど前に、大分の中学校と沖縄の高校、そして福岡の企業バンドがやっていたことがわかりました。早速大人のバンドに問い合わせるも、版権がらみであえなく断られます。
そこで諦めるような済々黌吹奏楽部ではありません。困難であればあるほど済々黌魂に火がつき、得意の突撃作戦に出ようと考えます。
さすがに沖縄への突撃は断念し、大分の中学校に出向くことを決意。学校の都合で休みになっていた平日に、あの菊電コンビ・M先輩&Iさん(なんだかんだで仲がいい)は、朝一番の大分行きJR豊肥線に乗り、一路、別府市立北部中学校へ。学校へ着いたのはお昼過ぎになっていました。
「アポもなしに非常識だ!」と怒られても仕方のない場面です。ところが吹奏楽部顧問の先生は、「遠いところご苦労さん。待ってました」との意外な反応。そして、ほしくてたまらなかった『ハンガリー狂詩曲第2番』の楽譜を、手渡してくださるではありませんか!
実は、済々黌吹奏楽部の顧問になられたばかりの鳥居勇先生が、M&Iによる突撃計画の情報を耳にされ、「さすがにいきなりはマズいだろう」と先回り。別府北部中吹奏楽部の先生に、電話で頼んでくださっていたのです。運の良いことに、別府北部中の先生は、大分県吹奏楽連盟理事長(のちに九州吹奏楽連盟理事長)で、「高校生たちががんばっているのだから、応えてあげたい」と、すぐに吹奏楽部員を招集。その先生が指導した曲ではなく10年ほど前に演奏した楽譜なので、探すため時間が必要でした。
そしてM&I突撃隊が到着する直前の昼休みには楽譜をそろえ、待ちかまえていてくださったのです。しかし2つのパートの楽譜だけがどうしても見つかりません(よりにもよってM&I突撃隊のパート)。そこは悪運の強い済々黌のこと、たまたま沖縄の高校の顧問の先生は沖縄県吹奏楽連盟理事長。別府の先生は、県代表同士で顔見知りだった沖縄の先生にお電話され、なんと「不足分のパート譜を、済々黌高校宛に郵送してやってください」と手配してくださっていたのでした。縁もゆかりもない高校生のために。
そうやって皆さんのご協力のおかげで入手した自由曲『ハンガリー狂詩曲 第2番』と、課題曲『吹奏楽のためのバーレスク』の楽譜を持って、ヅラさんに指揮をお願いに行ったのです。
楽譜もなければ指揮者もいない。ないない尽くしから、やっと練習スタート。みんな心を一つに頑張りましたが、吹奏楽コンクール熊本県大会では銅賞。九州大会2年連続出場には至りませんでした。
ヅラさんは高校指揮者としてデビューした当時を振り返り、「みんな上手いし、イケると思ったんだけどねー。『ハンガリー狂詩曲 第2番』は、ちょっとキラキラした曲だった。けど翌年の『フィンランディア』は抒情的で、より済々黌に合っていたと思うね」
ヅラさんの指揮者就任直後、当時黌長だった一瀬恭己先生(もと吹奏楽部顧問)は、ふらりと練習場に現れて合奏をお聞きになり、無言で立ち去られることもありました。一瀬黌長は、後でヅラさんに「生徒の心がみんな、君の方を向いているのがわかる」と、おっしゃったそうです。心ここにあらずで、顔だけ先生に向ける時もあります。「生徒の心」を見抜かれるとは、さすが一瀬先生。部員一同、ヅラさんの指揮に魅了されていたことは想像に難くありません。
再び九州大会に進出!そして甲子園出場! 〜1979年〜
翌1978(昭和53)年、済々黌吹奏楽部は課題曲『ジュビラーテ』、自由曲『交響詩 フィンランディア』を引っ提げて、県大会で金賞を受賞。2年ぶりに、九州大会進出を決めたのでした。以降11年間、ヅラさん指揮による怒涛の快進撃は後述のとおりです。
その翌年の1979(昭和54)年に私は入学したのですが、初心者なので、4月の定期演奏会ではまだ演奏できませんでした。新入生では、私と同じく合格発表の翌日に入部したクラリネットの二人だけが出演しました。
同年7月、21年ぶりに野球部が県大会で優勝! 甲子園出場を決めたのです。それを知ったのが、吹奏楽コンクールの県大会当日。まさに出場する直前の、熊本市民会館の裏の廊下にいた時。3年の部長が、「野球部に続いて、俺達も県大会で優勝するぞ!」「オーーッ!!!」出演前から、大盛り上がりでした。
課題曲『幻想曲 幼い日の想い出』、自由曲『シンフォニックバンドのための《パッサカリア》』で、みごと金賞を受賞。今思うと、私のような初心者がよく出場できたものだと思います。当時は人数が少なかったんですよね。
甲子園への応援は、8月11日の初戦は夜行バス、2回戦はフェリーで行きました。私は、コンクール曲も満足に吹けないのに、野球の応援歌(『ゆけゆけ飛雄馬』とか『ポパイ・ザ・セーラーマン』とか)という新しい楽譜を渡され、泣きながら練習していましたよ。
東北高校との初戦で、私たちフルートが指揮の先輩の方を向くと、マウンドが見えないんです。カキーン! ワー!!!!と聞こえても、今、何が行われているのか、全然わかりません。気が付くと、18対5で勝っていました。
今では、試合の前に必ず校歌が流れますが、当時は勝った時のみ。それはもう、甲子園で黌歌を演奏する喜びは格別です。どの高校も1番だけ歌うのに、「済々黌黌歌は4番で1セット!」という応援団の一言で、4番まで演舞。当然、指揮者は棒振りを続け、演奏も4番まで。観客もOBが多いため、歌い続けます。途中、場内アナウンスで「済々黌高校の皆さんは、すみやかに退場してください」と注意されました。それでも歌をやめないので、2回目の退場要求アナウンス。恥ずかしい……(泣)。
一旦バスで帰熊し、わずか3日後の8月14日が2回戦。城西高校に9対4で負けました。甲子園の炎天下で演奏したせいか、「楽器の音が荒れた」「クラシックの音ではなくなった」と言われる先輩もいらっしゃったくらいです。3回戦まで進んでいたら、九州大会まで調整できたのでしょうか。
がんばってコンクール曲を練習しましたが、8月末に鹿児島県で開催された九州大会では、銀賞でした。でも甲子園のため多額の寄付をしてくださったおかげで、高価な楽器を購入することができました。
実は吹奏楽部の創部も、甲子園がきっかけなのです。1958(昭和33)年春、野球部が選抜高校野球大会で初の甲子園出場が決まった後、慌てて創部したという話を聞きました。「音楽好きが集まって……」ではなく、甲子園という大舞台で「野球部のために何かせんといかん!」という済々黌体質から生まれたと言えそうです。その大会で済々黌野球部は、王貞治選手含む名門・早稲田実業高校を破って優勝。急ごしらえの吹奏楽部ですが、応援に一役かったのではないでしょうか。
自由曲が大どんでん返し! 済々黌サウンドとは!? 〜1980年①〜
1980(昭和55)年、課題曲は『吹奏楽のための《花祭り》』でした。そして自由曲は、定期演奏会の演目の中から多数決で、私も投票した『交響的舞曲第3番 フィエスタ』に決定。ところが、YK先輩(56年卒)が、「『交響的舞曲』じゃ全国大会に行けない。『カディッシュ』が今年のメンバーに合う」と、署名運動を始められたのです。
自由曲が決まった翌日、体育館の前で練習していると、YK先輩(以下、Y先輩)が近くに来られ「よかったら、署名してくれんかなぁ」と言われました。隣にいた同級生は、「はい」と即答して署名(後にY先輩の嫁になります)。私は、「『カディッシュ』なんてロングトーン地獄。死にます」と、お断りしました。でも部員一人一人を回られるY先輩の姿に大部分の人が署名していたので、不安になりました。
何十人分の署名がTR部長(56年卒)に提出されると部員全員、音楽室に緊急招集。TR先輩は合格発表の翌日、違う中学の私にまで親身になってお世話をしてくださるような、とても穏やかで優しい先輩です。そんな部長が全員に向かって、怒りを抑えておっしゃいました。「みんなの署名を見たよ。俺も『カディッシュ』に投票したけど、多数決で『交響的舞曲』に決まったから、『よし、この曲でがんばろう!』と思った。それがどうして、今は『カディッシュ』の方が多いんだ? 最初の投票で、ちゃんと考えて選ぶべきじゃないか」
私は「そのとおりです。このまま『交響的舞曲』で行きましょう!」と心の中で叫んだのですが、部長は「みんながそれでいいなら、『カディッシュ』でいく」と。もう涙ナイアガラ……(´;ω;`)ウゥゥ
当時のクラリネットの1年生は、「事情もわからず自由曲投票に参加したのですが、3年の先輩から『周りが何と言っても、ヅラさんがやりたいっていう方に投票して』と言われ、『交響的舞曲』に投票しました(笑)」。
別の後輩によると「ヅラさんが『交響的舞曲はノリがいいねぇ』とおっしゃっていた」そうです。それは単なる感想なのでは……?
もしかしたら3年の先輩も、そのような言葉を耳にされて1年生にお伝えになったのかもしれません。ちょっとした発言でも、指導者の言葉は生徒に大きな影響を与えます。
ヅラさんは学校の教員ではなく熊本市職員という立場で、合奏指導は無償ボランティアです。しかし中学から吹奏楽部をやっていた後輩にとっては、指導者は絶対的存在。その1年生は「指揮者の先生の意見を生徒がひっくり返すなんて、かなりの衝撃でした。すごいところに入部してしまったと思いました」と、今でも振り返ります。
今年ヅラさんにインタビューしたら、「選曲は生徒に任せて、自分が口出ししたことはない」とのことでした(あれれ?)。
最近知りましたが、署名運動をされたY先輩の考えは、「トランペット、ティンパニ、アルトサックス以外は初心者が多い。昨年全国大会に行った福岡のN高校は、キラキラした木管の音色と金管の重厚な低音が売り。F高校は、どこにも真似できないパワーあるサウンド。この2校に対抗するには、メカニックな曲ではなく、じっくり音とハーモニーを磨き、うちにしか出せないサウンドで勝負するしかない」ということでした。いぶし銀のような曲の『カディッシュ』だからこそ、創部以来初の県大会最優秀賞の栄冠に輝いたのでしょう。ヅラさんのおっしゃるとおり、「キラキラした曲」は、済々黌サウンドとあまり合わないのかもしれません。
『カディッシュ』の最後は、トランペットの最高音のC(ハイツェー)が決め手となります。曲中も散々ロングトーンで演奏し、最後の最後で、最高音のロングトーンは、トランペット奏者にとってかなり苦しい曲です。Y先輩の同級生は「コンクールでいろんな学校の演奏を聴いて、うちのラッパはとっても上手かったというのがよくわかったよ。でも、そのY君が苦しんでいるから、よっぽど大変な曲なんだね」とおっしゃったほどです。
九州大会のリハーサル後、Y先輩の同級生の女子六人全員から、「Y君の最後のハイCが美しく響くように」と、オレンジジュースの『ハイC』をプレゼントされていました。「Y君が本番のステージで椅子の下に、ジュースの空き缶を置いて演奏していたのは、今でも忘れられません」と、女子の先輩がおっしゃっています。
覚えていますよ。ヅラさんが、「Y、なぜジュースの缶が?」とお尋ねになると、Y先輩は「ハイC(ハイシー)飲んで、ハイC(ハイツェー)出す! 3年生みんなの願かけです」と言っておられました。金賞は、きっとそのご利益ですね。
九州大会で初の金賞を受賞しましたが、全国へはあと一歩届かず。しかし、この大会後、吹奏楽専門誌『バンドジャーナル』に「今大会唯一の素晴らしい金管のサウンドでした」と記載されました。音は個々。音楽は集団。仲間を信頼しているからこそ、本音を言い合い、自分達にしか創り出せない音をみんなで探究した結果、頂けた賞でした。
夏休み明け、高校のランチタイムに、放送部が金賞受賞記念として2曲共放送してくれました。『花祭り』はピーヒャラした明るい曲なのに、『カディッシュ』は、重苦しいですよね。クラスメイトに「何この、暗~い曲」と言われ、「お葬式の曲だからね」と答えると、「お弁当がまずくなる」と。それだけ音楽性の高い曲なんでしょうね。
ちなみにY先輩は、のちに小学校で長年吹奏楽や合唱の指導をされ、最優秀賞等数多くの賞を受賞されています。きっと子どもたちの特性を活かした選曲をされて、練習したくなるような導きをされていらっしゃるのでしょう。
吹奏楽部を脱退! ガンダムつながりで漫画研究会へ 〜1980年②〜
『カディッシュ』で悪戦苦闘した1980(昭和55)年の4月には、わがフルートパートに経験者三人が入部して来ました。うち一人はのちに芸大を出て、プロ演奏家になるほどの腕前で、他の子も私とは比較にならないほどうまい!でもコンクール出場には人数制限があり、この年度のフルートは四人(3年生一人、2年生三人)まで。私より上手な後輩が、私がいるせいで、出場できなくなってしまうのです。
私たち出場者が音楽室でコンクールの合奏練習をしている時、中学時代に九州大会出場経験もある1年生たちは教室で、個人練習。
当時は、「上手な1年生が合奏に出られない。教室で個人練習させてごめんね」という気持ちでいっぱいの私。同じ2年のYEさん(以下、Eちゃん)は、「先輩なんだから、堂々とコンクールに出ていいよ」と言ってくれます。でも後輩三人が私を先輩として立ててくれることは、実力の無さを自覚している私にとって、かえって居づらくてたまりませんでした。そして2年の秋に、とうとう吹奏楽部を退部し漫画研究会へ転部することに。
きっかけは、同じクラスに漫画研究会の人が三人いたことです。実は私、昔から漫画やアニメも大好きなのです。
この前年1979(昭和54)年4月、アニメ『機動戦士ガンダム』、いわゆるファーストガンダムが放映開始。当初、熊本県では放映されなかったのをご存じですか?
そもそも熊本ではテレビ局が少なく、放映されない番組もあります。だから私は、自宅に背の高いアンテナを立てて福岡のテレビも視聴。福岡では『無敵鋼人ダイターン3』の後番組でガンダムが始まったのに、1週間遅れの熊本放送では、違う番組が紹介されたときのショックと言ったら! 「熊本ではアニメは市民権を得ていないのか? 宇宙戦艦ヤマトの時に受け入れられたと思っていたのに……」
しかし全国のアニメファンの間では「今までの一話完結ロボットアニメとは違う!」と話題になり、アニメ雑誌でも大きく取り上げられていました。
どうしてもテレビでガンダムを見たい! そんな女子高生たちが熊本のテレビ局での放映を求めて、署名運動を開始します。発起人は熊本市立高校(現:熊本市立必由館高校)2年生の女子。各高校の漫画研究会やアニメ研究会に働きかけました。
そんな中、熊本商科大学付属高校(現:熊本学園大学付属高校)の1年女子が、同じ中学出身のイラスト好き女子に「済々黌の漫研の人を紹介して」と打診。私と同じ美術クラスだった彼女は「うちの漫研は描くのが好きなだけ。それより香織の方がアニメに詳しいし、行動力があるから!」と、つないでくれたのです。
当時1年生だった私は、我が黌代表として署名を集めました。漫研の先輩方は、あまりアニメに興味はないご様子でしたが、署名運動にご協力いただきました。吹奏楽部員はじめ、当時ガンダムのガの字も知らずに署名してくれた皆さん、ありがとうございます。おかげ様で、RKK熊本放送さんに署名の束を持ち込み、無事、放映にこぎつけました。熊本もガンダムブームにも乗り遅れずに済みましたね。
その署名運動を通して仲良くなった漫研の同級生三人と、2年生で同じクラスになりました。彼女らはギャグ漫画あり、ストーリー漫画あり、本当に面白い漫画を描くんです。冊子を販売して儲けようというより、「友達のすばらしさを知ってほしい。吹奏楽部では居場所がないけど、漫研なら私でも役に立てるんじゃないか」と感じ、吹奏楽部を辞めたのです。ガンダムで人生が変わったかもしれません。
印刷もコピーではなく、学校の輪転機を借りて節約しました。漫研の冊子は、昨年の販売実績が10部。しかし私は300円の冊子を100部、完売しました。そのための努力もしたんです。文化祭当日、よく声が通る子を廊下に立たせ、「漫研の漫画、読んでね~!」と声を響き渡らせました。ストーリー漫画が得意な子をガイド役として、室内に配置。そして他県から転校して来たばかりの美少女を、「どこの部にも入ってないなら、休むとこないでしょ。漫研においでよ。同じクラスの女子もいるし」と誘い、教室入口の目立つ位置に彼女の椅子を置きました。看板娘のおかげで、男子が入って来る来る!押し売りせずとも、転入生の可愛い子ちゃんが「良かったら……」と上目使いに見るだけで、売れる売れる!活動費を稼ぐことができました。
文化祭では、漫研の教室を友達に任せ、体育館のステージに吹奏楽部の演奏を聴きに行きました。私がいたら、あんなに美しいメロディにならなかっただろうな、と思いながら。
私は大学卒業後、東京の出版社および熊本の出版社に入社するのですが、高校時代から本を作って売るのが得意だったんだと今更ながらに思います。
やっぱり合奏が好き! まさかのフィンガリング地獄 〜1981年〜
赤ちゃんだったヅラさんの次女さん(のちに済々黌吹奏楽部へ入部)は、ごくまれにパパの練習に同行。後輩たちが、フルートの曲であやしていました。
私は退部したものの、放課後に練習している音を聞くと、演奏したくてたまりません。そんな私は、大谷楽器でフルートを習い始めました。驚くことに、そこでは私は上手いほうなんです。初心者の私をここまで育ててくださった先輩には、感謝しかありません。途中退部して心苦しいです。
しかし、やっぱり合奏がしたくなりました。フルートだけではなく、いろんな音でハーモニーを奏でたい。花園小の仲間たちが入りたくても入れなかった済々黌吹奏楽部。そこに戻るチャンスがあるのも、あと1年間だけ。
そう思うと、同級生の部長に頭を下げて、再度入部したい旨を伝えました。彼は快く受け入れてくれました。フルートのパート長Eちゃんからは、「コンクールが終わったら辞めて、また3年でコンクールだけ出るって虫が良すぎる」と言われました。出なくてもいいのです。むしろ、出たくないのです。何を言われても、11月のオープニングコンサートで引退するまでの数か月、ヅラさんの指揮で演奏する済々黌吹奏楽部員でいたかったのです。
1981(昭和56)年は、課題曲『東北地方の民謡によるコラージュ』。自由曲『パンチネルロ』は、とにかく楽譜がアリの巣みたいい音符だらけで、指を早く動かすのが私には難しかったですね~。その曲をみんな上手く演奏するものだから、ヅラさんがノリにノッて、どんどんテンポが速くなるのです。
昨年のロングトーン地獄のほうがましと思える、フィンガリング(運指)地獄。私が音を出すよりも、むしろ演奏しているフリをした方が、マイナスが少なくて済むかもしれません。そう言うと、隣のEちゃんは「ドレミファソラシドレのところ、音符一つずつ飛ばしてドミソシレでいいよ」と、私の実力に合ったアドバイス。そうして県大会では金賞、長崎県佐世保市での九州大会では銅賞を頂きました。3年間の九州大会で、金銀銅コンプリートです。
高校3年間の吹奏楽部生活は、山あり谷ありでしたが、忘れられないくらい楽しいものでした。隣でピッコロを吹いていたEちゃんと、合奏の時も笑ってばかり。指揮者から「次は『能面』」と言われると、Eちゃんは楽譜を探しながら、「能面のお面」。私が「能面の譜面でしょ」と笑うと、「能面、能面って繰り返しただけ!」
また別の合奏時、Eちゃんのセーラー服の白リボンがゆがんでいたので、フルートで指して「ここがゆがんでいるよ」と教えてあげると、「何よー」とフルートで突かれました。「リボンが曲がっているって」と言うと、「心がゆがんでいると聞こえた」って。
他愛もないことなのですが、箸が転んでもおかしい年ごろとは、よく言いますね。先輩後輩とも、一生残る思い出を作ることができました。
その中でも、特にヅラさんに指揮をしていただいたことが、一番、心に残っています。そういう部員は、多いのではないでしょうか。
自分がヅラさんの年齢を経験して初めて気づいたのですが、アラサーって、仕事にも慣れてきて、ものすごく忙しい時期ではないですか。それなのにヅラさんは仕事帰りにしょっちゅう指揮に来てくださいました。夏の合宿は土日含め3泊4日で、有給休暇を申請すると係長は渋い顔。しかし当時の職場は学校教育課で、歴代の課長(もと教員)は「高校生のために行かせてやるたい」と、ご理解くださったそうです。
お疲れのはずなのに、「『あ、今日は済々黌に行く日だ』と思うと、恋人に会うようなウキウキした気分になっていたよ」とおっしゃってくださるヅラさんに、心からの感謝と尊敬の念を禁じ得ません。
前にも少し書きましたが、ヅラさんと済々黌吹奏楽部をつないだ立役者のM先輩(53年卒)は、大学時代の1981(昭和56)年、卒業生による「済々黌OB 碧落アンサンブル」を創立されました(現在では他校出身の方も演奏しておられます)。私たち現役生が練習を終えて帰宅しようとする夕方から、済々黌の体育館で合奏しておられましたね。創立にも大変なご苦労がありましたが、それはまた別の機会に……。
ラッパの音が良くなる!? 恐怖のラー油99杯事件! 〜1982年①〜
1982(昭和57)年、トランペットの2年生TH君(以下、T君)が、ある事件を起こします。済々黌の男子生徒行きつけの店『桃花園』で、名物の天津飯にかけたラー油が、なんと49杯‼ どれだけ辛いか、想像もつきません。
きっかけは、卒業したばかりのトランペットKH君が、母黌に立ち寄ったこと。いつも同じパートの後輩にごちそうする彼ですが、その日は手持ちが少なく、「天津飯に大量のラー油をかけたラグビー部の記録を抜いたら、おごってやる」と条件付きに。T君は可愛い顔して、ラー油を49杯かけました。KH君によると、「真っ赤になった天津飯を見た桃花園のおじちゃんから、『そぎゃんラー油かけたら、肝臓ば悪くするよ』と、とても苦々しい顔で温かいお言葉を頂いた」そうです。
ラー油49杯に驚いたKH君は、トランペットの1学年上、あのY先輩(56年卒)の通う予備校へ報告に行きました。「先パーーーイ、たいぎゃスゲーことが起こりました! Tがラグビー部の記録ば、破ったとですよ!!」。後輩思いのY先輩は、いてもたってもいられません。3学年下のT君の偉業を讃えるべく、母黌へ向かいました。
「T、すげーねー。俺もラー油はだいぶかけるバッテン、そら敵わん。すげー、やっぱTはすげーばい!」
Y先輩によると、「Tは、まんざらでもなさそうだった。ラー油49杯って、凄まじいこと。当時は、『ラー油を大量にかけると、唇の血行が良くなって、ラッパの調子が上がる』とか言っていたような……」。
さんざん褒め讃えたY先輩は、しみじみとつぶやきます。「でも俺、(歴史的瞬間を)見とらんとたいねぇ。俺も見たかったなぁ……」
T君「おごってくれますか?」
Y先輩は、俺がおごらなかったことあったっけと思いながらも、「バッ!マジや! なら、行こうぜ!」と、桃花園へ出陣。
天津飯が出された時に、Y先輩は「せっかくだけん、自分の記録を破ってみたら?」。4学年下のT君は素直にラー油50杯をかけ、一昨日より赤さ・辛さがパワーアップした天津飯に。この日の桃花園のご主人は、じっと下を向き、一昨日とは違って一切無言。この生徒たちに優しい言葉は無駄だと思われたのでしょう。T君は、この日もそれを完食。見事、桃花園新記録達成! 1日空いたとはいえ、3日間でラー油合計99杯ですよ!(良い子の皆さんは絶対マネしないでください)
OBの先輩のノリに応え、見返す後輩のノリ。おごる先輩に、感謝してごちそうになる後輩。済々黌吹奏楽部の、学年を越えたつながりを感じます。T君いわく「いまだに『上司にゃ弱いが胃は強い』を地でいっております」。
そしてラー油99杯事件には、後日談もあります。「59年卒のT先輩が99杯」という伝説だけを聞いたトランペットのKH君(62年卒)が、果敢にも記録を破ろうと挑戦したのです! 「ラー油王に、俺はなる!」とでも思ったのでしょうか。結果はなんと、90杯!
KH君いわく、「T先輩の記録が2日がかりだと知ったのは、実は5~6年前でした」。
3学年下、つまり入れ替わりなので、情報がうまく伝わらなかったのですね。一度にラー油99杯って……肝臓どころか、大変なことになりそう。「いえ、身体はどうにもなかったです」とKH君はさらっと言いますが、ラッパ族は超人ですか?
沖縄での西部大会。台風で、飛行機が飛ばない!? 〜1982年②〜
1982(昭和57)年3月、私は卒業し、吹奏楽部の同級生六人で壺渓塾へ。先輩もいらっしゃったので、私は七人おそろいの座布団を縫いました。その年の課題曲は『吹奏楽のためのカプリチオ』、自由曲は『コラールとアレルヤ』でしたが、県大会が開催された7月23日は、のちに「長崎大水害」と呼ばれる歴史的な暴風雨の日。天草五橋が通行止めとなり、最大のライバル天草高校は会場に来ることすらかなわず(悪運が強い済々黌?)。表彰式も中止され、全員強制帰宅。
翌朝、部長から「県代表になった」と電話連絡。当時の3年生は「私が『んで、最優秀はどなた!?』と聞くと、部長が『うち』って」。1年の時に続いて2度目の最優秀賞なのに、発表の瞬間、「キャーッ」と全員で喜ぶ一体感を味わえない年でした。
九州大会の開催地は、復帰10周年を迎える沖縄です。福岡の大学生だったEちゃんは帰省し、熊本空港から現役生と一緒に乗り込んで行きました。私も空港でキャンセル待ちしたのですが、残念ながら満席。デッキでお見送りしました。
那覇市での大会では、銅賞を受賞。その帰り、運悪く台風が沖縄に上陸し、飛行機が飛ぶのか?という状態に。自然災害に翻弄されましたが、無事に帰熊できました。
とにかく県外に旅行したい。じゃ総文に出ようぜ! 〜1983年〜
その翌年の1983(昭和58)年、課題曲は『カドリーユ』、自由曲『アンティフォナーレ』。県予選では金賞で県代表に。特に『アンティフォナーレ』は、OBOGから「魂が震えた!」「ひったまがった!」と評されるほどの名演奏で、九州大会で金賞受賞。1980(昭和55)年以来、3年ぶりの快挙です。しかしなにしろ開催地は、地元熊本。栄誉はあれども、何かイベント性が足りません。
そこは済々黌、仕込みはOKです。「長崎、沖縄と、毎年旅行して来たのに、最後の年が熊本か。どこか県外に行きた~い!」と、ラー油99杯のT君ほか当時の2年生が、全国高等学校総合文化祭(総文)にエントリーしていたのです。総文の県予選は、1983(昭和58)年2月。あとで済々黌の立田山マラソン大会と同じ日だと気づいても、「いや、吹奏楽部として総文が大事!」と言い訳し、当然のようにマラソンを休ませてもらって県予選出場。
結果、熊本県代表に選ばれ、8月には山口県防府市へ。初の本州、いいですね。窮すれば通ず。
さらに4年後の1987(昭和62)年も、県予選の開催地が熊本だったため、総文に弦楽部とジョイント出場のエントリー。建設中の瀬戸大橋の下をフェリーでくぐり、県代表として愛知県名古屋市へ向かったそうです。
本州旅行に行けるかどうかが決まる総文の県予選当日、誰も知らないところで事件が起きていました。『シンフォニアノビリッシマ』でトランペットの短いソロ(独奏)を担当する2年生AK君(63年卒・以下A君)が、交通事故に遭ったのです。自転車で済々黌から子飼橋を渡り県立劇場に向かう途中、スーパーマーケットの前を通っていたら、右折して来た車と衝突。叩き落とされて、頭頂部から地面に! A君は「逆さに脳天杭打ち、ソフトケースに入っていたトランペットのスライドが動かなくなったんです。間に合わないのを覚悟の上で、かわせ楽器さんに修理をお願いしました」って。いやいやいや、車にはねられて、身体は大丈夫だったの!?
ソリストA君が、楽器が壊れるという切羽詰まった状況で思い出したのが、3年生KH君(62年卒)のトランペットです。1月頃のできごとですが、当時既に大学が決まったKH君は、「卒業まで練習しよう」と部室に楽器を置いていました。総文には出場しない先輩の楽器を取りに行ってもらうよう同級生に頼んだA君は、覚悟を決めてステージへ。さあ本番、というその時、かわせ楽器さんが大至急修理したトランペットを届けてくださいました。ステージにいるA君へ。「ありがたい思い出です」とA君。控室や舞台ソデではなくステージで渡すって、ギリギリ過ぎるでしょ!
「あわてましたね。何を吹いたか覚えていないです(笑)」。
えっ、覚えていないのは頭を打ったからじゃないの? 脳の精密検査とか受けた?
「結局病院には行かなかったような……(^_^;)。冬だったので、楽器が冷たかったのは覚えています」
て、記憶すべきは、そこじゃないですよ。
自分の身体より、演奏の心配ばかり。吹奏楽部あるあるですが、健康が一番大事ですよ。こういう強者エピソードが何代も語り継がれているのが、ラッパ族の縦のつながりのすごいところですね。
翌1988(昭和63)年は、課題曲『交響的舞曲』、自由曲『組曲第4番《絵のような風景》 より III. IV.』で、県代表に。TK君によると、「九州大会が福岡で、しかも出番が遅かったため、学校から『日帰りできるよね』と言われていました。しかし自分たちで高速バスとホテルを予約して勝手に宿泊。あとで黌長室で怒られたのを覚えています。当時は、この程度はよかろうという空気感でした。さすがに顧問の先生には事前にお伝えしました。その場で怒られましたが、先生もまんざらでもなく、キャンセルしなくて大丈夫でした(笑)」。
何がなんでも県外に旅行したいんでしょ。わかる、わかるよ。私も身に覚えがあります。お祭り体質は済々黌の伝統だものね。
吹奏楽部が結ぶ不思議なご縁 〜1983年〜
私が済々黌に入ろうと無謀な挑戦をしたのも、小学校卒業時に引っ越したことがきっかけです。人生は、後で振り返ると、「あの時の、アレがなければ……」ということも多いですよね。
吹奏楽部つながりのカップルも多いと思いますが、そんな中でも、びっくりするようなご縁を紹介します。
私の同級生のAHさん(57年卒・以下Hちゃん)とTN君(58年卒)が結婚したのですが、高校時代の二人は、お互いの存在すら全く知らなかったのです。
私が合格発表の翌日、京陵中出身の子と一緒に吹奏楽部に行くと、別の中学から来たクラリネットのHちゃんと出会いました。彼女も済々黌吹奏楽部を熱望して入学したのですが、2年生になる前に、お父様の転勤で北九州市へ。在校生として3月の卒業式では『威風堂々』を一緒に演奏して先輩を送り出しましたが、4月の入学式の黌歌は合奏できません。桜吹雪の中で泣きました。「済々黌吹奏楽部が大好きなのに。転校したくない」と。
夫となるTN君が入学して来たのは、その翌月の4月。すれ違いなのです。
その後、私は関東の大学に進学し、体育会水泳部に入りました。私は小学3年から水泳部に所属していましたが、腕の関節が痛くなったため、6年生で器楽部に転向したのです。
大学1年の夏休み、水泳の試合が兵庫県神戸市で開催。他の水泳部員が関東に帰るのを見送り、兵庫県の親戚宅に宿泊しました。そこから熊本へ帰る途中で、「福岡の大学に通う同級生のEちゃん宅に泊めてもらおうかな。同じアパートに中学の友達もいるし」と計画を立てました。
Eちゃんの家の最寄り駅に着くと、待っていてくれた彼女は「アパートの友達に『香織が来る』って言ったら、『五人で焼肉パーティしよう』って。うちはこっちなんだけど、野菜とか買わないといけないから、反対側のスーパーに寄って行こう」と。そのスーパーマーケットの方を向いたら、なんとワンちゃん連れのHちゃんが歩いて来るではありませんか! 三人でびっくりしました。4年ぶり?
Hちゃんは北九州市に引っ越したのですが、お父様が福岡市に転勤され、ご実家はこの近くです。遠くの大学に通っていたHちゃんは、たまたま帰省中。タイミングよく同級生三人が集まり、連絡先を交換しました。
1991(平成3)年の碧落アンサンブル定期演奏会では、同級生のOM君が指揮をすることに。高校教員である彼は、吹奏楽部員に対してカリスマ的な指導力を誇っている、という噂でした。東京で働く私は「同級生の指揮で演奏するなんて、一生に二度とない」と思い、帰省して定期演奏会の練習に参加しました。
その時、Hちゃんに「私が定演に出るのも最後だから来てね」とハガキを書いたのです。しかし彼女は大学卒業時に引っ越し、転送されたハガキを受け取ったのは、定演の後。その時は再会できませんでした。
私は東京に住んでいるし、その定演を最後の音楽活動にするつもりでした。しかし家族が入院し、1992(平成4)年には熊本に戻ることに。その年の定演にも出ることになり、Hちゃんに連絡を取ると福岡から聴きに来てくれるそうです。私以外の人は、Hちゃんと12年ぶりの再会で、「定演の後でクラリネットが減るから、コンクールを手伝って」という話になりました。卒業生ではないのですが、その頃は同級生がたくさんいて、特例を認めてもらいました(現在の碧落アンサンブルには、他高出身者も多いそうです)。
当時、1学年下のTN君は福岡で働き、定演の練習のために高速道路を運転して帰熊していたので、先輩が「T、おまえ、どうせ車で毎週来ているんだから、Hちゃんを乗せて来て」と頼んでくださいました。
二人はそれから毎週のドライブ。意気投合し、ついに結婚に発展したというわけです。結婚式の招待状が届いた時、この二人の名前が並んでいるところを見たことがない私は、椅子から転げ落ちるくらい驚きました。まるっきり想定外でした。
私が大学で水泳部に入らなかったら? 兵庫の親戚に1週間泊まらなかったら? 福岡でスーパーに行かなかったら? もっと言うと、私が花園小で水泳部から器楽部に変えなかったら? いや、そもそも小学校のプールに、1972年ミュンヘンオリンピックでバタフライ金メダルを取ったばかりの青木まゆみ選手(熊本県山鹿市出身)が来てくださらなかったら、水泳部に入っていないのです。
“もしも……”は尽きませんが、きっとご縁があったのでしょうね。
人生を変える出会いがある済々黌吹奏楽部
さて今回は、私の在籍した年度を中心に、ヅラさんが指揮をしてくださった時代を紹介しました。
1978(昭和53)年に指揮を依頼された当初は「音楽の先生が赴任して来られるまで3年くらい」の予定でしたが、次に音大卒の音楽専科の先生が赴任して来られるのは、1989(平成元)年4月。昭和の終わりに干支がひと回りするほど長期にわたって、済々黌吹奏楽部は、ヅラさんの指揮を受ける幸運を得たのです。
ヅラさんは、こう語ります。「済々黌は公立の進学校。楽器を買う予算もないし、大学受験のための勉強もしないといけないよね。しかも初心者も多い。技術力が高い集団なら美しいハーモニーを目指すこともできるが、それよりも済々黌は音楽性を目指しました。九州大会の講評で『音楽性豊かな響きの演奏でした』とよく言われたけど、手ごたえを感じましたね」。
私の高校時代、顧問は鳥居先生でした。ヅラさんも「鳥居先生は黙って、きめ細かい気配りをしてくださるので助かりました」と感謝しておられます。先に書いた別府の中学へのお電話からもわかるとおり、生徒の気付かないところで様々なお世話をしてくださっていたのでしょう。
初心者の私にフルートを教えてくださったMJ先輩(56年卒)も、鳥居先生の隠れた一面を教えてくださいました。1980(昭和55)年の課題曲『吹奏楽のための《花祭り》』は、フルートの高音のソロで始まります。この印象的なハイCのために、鳥居先生はご自身所有の総銀製フルートをMJ先輩にお貸しくださったそうです。「もう響きが、全然違う。総銀の楽器を生徒に貸してくださるなんて、有り難いことです」。
寡黙で縁の下の力持ちである、物理の先生。そんな鳥居先生が合宿で独唱された『ひょっこりひょうたん島』には、「意外にお茶目さん?」と度肝を抜かれました。
現在の済々黌吹奏楽部があるのも、創り上げてくださった諸先輩や先生がたのおかげです。当初、様々なご苦労があったことと思います。その先輩がたの努力が実を結び、伝統が受け継がれて、現在の済々黌吹奏楽部の基盤となっているのではないでしょうか。
人生を変える出会いがあるかもしれない済々黌吹奏楽部。卒業後もご縁は続いていきます。1992(平成4)年12月~1993(平成5)年1月にかけて、熊本交響楽団の中国演奏旅行に私は事務局として同行させていただきました。熊響理事であるヅラさんと共同作業をして、「中村さんは高校時代おとなしい女の子という印象だったけど、こんなに仕事のできる女性に成長しているとは!」と言われました。おとなしいというより、印象に残らなかったと思います。高校時代は、下手だとバレないように存在感を消していましたから。大人になって、初めてヅラさんのお役に立てて嬉しかったです。
数年前は、東京大同窓会での黌歌生演奏に参加させていただきました。年配の先輩がたはキナセン帽子をかぶり、肩を組んで嬉しそうに黌歌斉唱。音程を気にする吹奏楽部OBOGをよそに、「まさか吹奏楽部の生演奏で黌歌が歌える日が来るとは思わなかった。ありがとう!」と、先輩がたに喜んでいただくことができました。
たくさんの卒業生と在校生でつながる、済々黌吹奏楽部の輪。今後の発展が楽しみです。
※エピソードを教えてくださった皆さんのご協力に感謝します。ヤンチャな内容は、どうしても公表できず、私の胸のうちに秘めておきます。大変申し訳ございません。
黒葛原潔さん指揮による西部大会・九州大会出場の軌跡
※[課]は課題曲、[自]は自由曲
1978(昭和53)年、[課]ジュビラーテ、[自]交響詩《フィンランディア》、県:金賞、西部(福岡県北九州市):銀賞
1979(昭和54)年、[課] 幻想曲《幼い日の想い出》、[自] シンフォニックバンドのための《パッサカリア》、県:金賞、西部(鹿児島市):銀賞
1980(昭和55)年、[課] 吹奏楽のための《花祭り》、[自] カディッシュ、県:最優秀賞、西部(宮崎県都城市):金賞
1981(昭和56)年、[課] 東北地方の民謡によるコラージュ、[自]、パンチネルロ、県:金賞、西部(長崎県佐世保市):銅賞
1982(昭和57)年、[課] 吹奏楽のためのカプリチオ、[自] コラールとアレルヤ、県:最優秀賞、九州(沖縄県那覇市):銅賞
1983(昭和58)年、[課] カドリーユ、[自] アンティフォナーレ、県:金賞、九州(熊本市):金賞
1984(昭和59)年、[課] 吹奏楽のための土俗的舞曲、[自] エスタンピー、県:金賞、九州(鹿児島市):銅賞
1985(昭和60)年、[課] ポップ ステップ マーチ、[自] バレエ音楽《四季》 より 秋、県:金賞、九州(福岡市):銀賞
1986(昭和61)年、[課] 吹奏楽のための「変容」、[自] 序曲《春の猟犬》、県:金賞、九州(福岡市):銀賞
1987(昭和62)年、[課] 風紋、[自] バレエ音楽《コッペリア》、県:金賞、九州(熊本市):銀賞
1988(昭和63)年、[課] 交響的舞曲、[自] 組曲第4番《絵のような風景》 より III. IV. (マスネ(ミレ)) 県:金賞、九州(福岡市):銅賞
中村 香織
横浜市立大学国文科国語学専攻の頃、済々黌に戻る最後のチャンスとばかりに、教育実習を母黌で行う。リクルート(東京)で就職情報誌、ウルトラハウス(熊本)月刊タウン情報クマモトの制作に関わる。その後、ライターに。タロット占い師。
伊藤(旧姓宮野)雅美
絵画講師・画家 平成8年済々黌高校卒業。 金沢市立 金沢美術工芸大学 油画専攻卒業。 油彩、水彩、アクリル、パステル画などでの展示多数 熊本デザイン専門学校勤務を経て、現在三重県在住。二児の母 名古屋と桑名で絵画教室主宰、他幼稚園なども含め月に500名程に絵を教えたり、美術を一緒に楽しむ活動をしています。時々パン屋さんでパンの絵も描きます。2022.10.18-29東京・馬喰町SAN-AI-GALLERYにてグループ展を予定しています。https://oekakibu.com/
中村 香織
横浜市立大学国文科国語学専攻の頃、済々黌に戻る最後のチャンスとばかりに、教育実習を母黌で行う。リクルート(東京)で就職情報誌、ウルトラハウス(熊本)月刊タウン情報クマモトの制作に関わる。その後、ライターに。タロット占い師。
伊藤(旧姓宮野)雅美
絵画講師・画家 平成8年済々黌高校卒業。 金沢市立 金沢美術工芸大学 油画専攻卒業。 油彩、水彩、アクリル、パステル画などでの展示多数 熊本デザイン専門学校勤務を経て、現在三重県在住。二児の母 名古屋と桑名で絵画教室主宰、他幼稚園なども含め月に500名程に絵を教えたり、美術を一緒に楽しむ活動をしています。時々パン屋さんでパンの絵も描きます。2022.10.18-29東京・馬喰町SAN-AI-GALLERYにてグループ展を予定しています。https://oekakibu.com/
140th anniversary special column
140周年特別記念寄稿
Column by graduate